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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
【終章】
209/219

いつか晴れた日に





こぼれ落ちた、ひとしずく……





「……降り出したな」


 雨粒を落とし始めた空を見上げて、チョルスは溜息をつく。


「早く行こう……ミンホ?」


 うずくまり、動こうとしないミンホの側で、婚約者だという少女が心配そうに彼を覗き込む。


「痛いの?」

「いや……どうして?」

「だって、オッパ……泣いてる」


 二人のやり取りを見つめながら、チョルスはロータリーの向こうに止まった大型のキャンピングカーに視線を移した。


 やっぱり奴らは、雨を呼ぶんだな――

 妙な感心を持って、その車を見つめながら、チョルスはつい先日のやり取りを思い出していた。



 半年前――



 パク・サンウへの傷害罪で服役していたナビは、刑期を全うして出所した。

 裁判の中で、ナビの生い立ちや素性が明らかになる中、情状酌量の余地が多分にあるとされ、殺人未遂ではなく傷害罪として、検察側の求刑より刑期も大幅に減刑されていた。


 服役中はチョルスといえども、刑務所内のことにまでは手が出せなかったが、折に触れ、チョルスなりの内部のコネを使い、ナビの様子は気にかけていた。


 何よりも、当然と言えば当然だが――女子刑務所に収監されたため、他の受刑者たちからの嫌がらせなどを心配していたが、伝え聞くナビの話はいつも、刑務所の中でも明るさを失わず、受刑者たちのムードメーカーになっているというから驚いた。


 たくましいな、と素直に関心するのと同時に、いくら本人の強い願いとは言え、そんなナビを真実を知りつつも黙って服役させてしまったことに胸が痛んだ。


 ミンホからは、チョルスの元へ度々連絡が入っていた。

 自分が記憶を失うきっかけとなった、事件の詳細を知りたいというものだ。

 だが、その記憶はナビが自分を身代わりにしてまで、守りたいと思った真実に繋がっている。

 ナビの気持ちと覚悟を知っているからこそ、チョルスは頑として捜査資料を渡すことはなかった。


 三年の時が経ち、アメリカに留学していたミンホから帰国する旨の連絡が入った。まだ万全とはいかないが、体調も戻りつつあるため、休職中だった循環補職の座に復職すること、残っていた任期三ヶ月を、またチョルスたちのいる捜査課で過ごすことが決まっていた。


 迷いながらも、チョルスはそのことを『ペニーレイン』のジェビンに伝えた。

 ミンホに既に結婚を約束した女性がいることも。


 いまさら、再会をナビ自身が望まないであろうことは分かっていたが、二人を間近で見てきて、お互いの想いの強さも知っていたチョルスは、どうしても知らぬフリなどできなかった。


 ジェビンは、短く「分かった」と答えただけだったが、数日後、彼はわざわざチョルスを訪ねてきた。



 帰国したミンホと、すれ違うだけでいい――

 最後にナビに会わせてやりたいんだ、と。

 その願いを無下に出来る筈もなかった。





(――知らないの? 猫は雨を呼ぶんだよ)


 握り込んだ小さな雨の雫は、手のひらで輝き、ミンホの黒い瞳の中で揺れる。

 同じ輝きを、いつも身に着けていた人を知っている。



 動くたびに、左耳で揺れるピアス。



兄貴ヒョンと呼べー。タメ口きくなよ!)


 泣き過ぎて、枯れた子どものようだと思った声。



(……見るなよ)

(見えません)

(……聞くなよ)

(雨の音で、聞こえません)


 初めてこの胸に抱きしめた、華奢な身体。



(あなたも僕を意識してる……違いますか?)

(……違わないよ)


 真正面から想いを伝えあった、雨の日の図書館の匂い。



(10数えて――雨が降っている間に僕のこと捕まえられたら、お前のものになってやるよ)


 嵐の中を、狂ったように追いかけた人。



(バカなの?……お前は、何で……僕のために、そこまでするの?)


 掻きあげた、汗で白い額やうなじに張り付く、黒い髪。



(これで、あなたは僕のものだし、僕はあなたのものだよ)


 自分の右耳に刻んだ、約束のピアス――



(……忘れて、ミンホ……辛いことは、全部)






「……オッパ?!」


 手のひらのピアスを握りしめ、突然立ち上がったミンホに、側で見守っていた少女が驚いて声をあげる。

 だが、ミンホはそれに振り返ることなく、アスファルトを蹴って、先ほど自分とすれ違った、黒い野球帽を被った彼と、痩せた灰色の猫が消えた雑踏へ向かって駆け出していた。





「お帰り、ナビヤ」


 助手席のドアを開け、滑り込むようにキャンピングカーに戻ってきたナビと灰色猫のオンマを、後部座席に座っていたオーサーが優しく迎え入れる。


「……別れは、できたか?」


 ハンドルを握るジェビンは、前を向いたまま静かに尋ねた。


「……うん、ありが……とう……兄貴ヒョン


 ナビは助手席にもたれ、被っていた野球帽のツバを押し下げて、顔を隠す。

 泣いているところを見られたくないのに、フッフッと漏れる嗚咽は隠しようもなく、華奢な顎を伝って流れる涙が、Tシャツの襟を濡らしていく。


 ジェビンは横から手を伸ばし、野球帽の上から、そんなナビの頭を優しくポンポンと叩いた。


「じゃあ、行くか」


 そう言って、ジェビンがエンジンをかけようとした時、突然助手席のドアが乱暴に開かれた。

 ナビが驚いて声をあげる間もなく、その腕を掴まれ、無理やり路上に引き出されると、そのまま広い胸の中に閉じ込められた。


 野球帽が地面に転がり、サラリとした黒髪が風になびく。



「ヒョンッ!……ナビヒョンッ……」



 かかとが浮くくらい、強い力でその胸に隙間なく抱きしめられ、ナビの呼吸が止まる。


「……なん、で?」


 途切れ途切れの声で、尋ねる。


「なんで……忘れて、くれないの?」


「忘れられるわけ、ないでしょうっ!」


 そう言ってミンホは、もうこれ以上ないというほど、抱きしめる腕に力を込める。

 顔を埋めるミンホの流す涙が、ナビのTシャツの肩先を熱く濡らしていく。


「……ナビヒョン」


 何度も自分の名前を呼ぶミンホに答えるように、ナビも震える手を伸ばし、そのシャツの背をキュッと掴んだ。




「あ……」


 車の中でそんな二人を見守っていたジェビンが、開けた窓から空を見上げる。

 気まぐれな雨は足早に通り過ぎ、代わりにキラキラと輝く陽光が、世界を塗り替えていく。



 明るい太陽の下で、ミンホはようやく捕まえた腕の中の猫を、決して離さないと誓うように、もう一度その腕に力を込めた。













【ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~】完










これにて本編完結になります。

長期に渡る連載にお付き合いいただき、ありがとうございました。


近日中に番外編2本をアップして、完結済登録したいと思います。


引き続きよろしくお願いします。

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