8-10
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トランクを引く肩先に、ポツリと小さな雨粒が落ちた。
「降ってきたわ! 兄さん、早く中に」
先を歩いていたスヨンが、ミンホを振り返る。
今日二人は、仁川国際空港から、スヨンの留学先でもあるアメリカへ旅立つ予定になっていた。
ついさっきまで空は晴れ渡っていたのに、ポツリと落ちた雨粒は、すぐに次の本格的な雨を呼んできたので、ミンホはスヨンに促されるまま、足早に空港の建物の中に入った。
搭乗ゲートの前で、スヨンがチケットを確認する間、ミンホは所在なさげに立ち尽くし、行き交う人々を眺めていた。
「やだっ! ナビと行く、ナビと行くの!」
その時、ミンホの背後から、急に幼い女の子の泣き声が聞こえてきた。
ミンホが振り返ると、女の子は小さな子猫を抱えて、泣きじゃくっていた。
側には若い母親と、見送りに来た祖父母と思われる二人が、女の子を囲んで、あの手この手でなだめている様子だった。
「猫は飛行機に乗れないのよ」
「いやっ! 乗れるもんっ!」
母親がいくら言い聞かせても、女の子は頑として聞き入れようとしない。
抱きしめる腕に力を込めすぎて、苦しくなった子猫はニャアッ!と一言甲高い声で鳴くと、少女の腕からスルッと逃げ出した。
「ナビッ!」
少女が叫び、子猫は一目散に空港の床を蹴って走ると、ミンホの足元に駆け寄ってきた。
ミンホはほぼ無意識に手を伸ばし、子猫を抱き上げていた。
「あ……すみません、ご迷惑を」
若い母親が、少女の背中を押しながら、すまなそうにミンホの元へ近づいてくる。
ミンホは子猫の頭を撫でながら、まだ涙で頬を濡らしたままの少女へ歩み寄り、目線を合わせるように屈みこんだ。
「……ナビが、好き?」
少女の瞳から、また涙が溢れてくる。
「……大好き。だから、離れたくないの。離れてる間に、私のこと忘れちゃったら、どうしよう」
少女の横から母親が、祖父母の家の猫なんです――とミンホに説明した。
長期休暇で帰省している間、いつも一緒にいたのだと。
「……猫は、雨を呼ぶんだよ」
「え?」
突然のミンホの言葉に、泣いていた少女はキョトンとした顔でミンホを見つめる。
「猫は君を想って、雨を降らせるんだ。だから、雨が降るたびに、ナビも君のことを想ってるって、思い出して」
「……本当?」
涙が乾いた少女は、半信半疑な様子で尋ね返す。
「――だから今も、雨が降っているでしょう?」
そう言って、ミンホは優しく目を細める。
腕の中で身じろぎをする子猫の頭を撫でると、首についた金色の鈴がチリンと小さな音を立てた。
鈴が放つ小さな輝きが、ミンホの記憶の隅で、動くたびに耳元で揺れる、誰かの小さな輝きと一瞬重なる。
ツキン――とこめかみを襲ういつもの痛みに続いて、まだ癒えていない右耳の傷口が疼いたような気がした。
*
左耳のピアスが、拘置所の高い窓から入ってきた陽の光に照らされて、キラリと輝く。
「783番、入れ」
名前ではなく、収監番号で呼ばれたナビは、言われるままに部屋の中へ進む。
「持ち物はすべて置いていけ」
そう言われ、ナビのズボンのポケットにあるものを探り、クシャクシャになったティッシュやら、外れたボタンなどを机の上に置いていく。
ロクなものを持っていないな――我ながら改めてそう思って、ナビはこんな場面なのに苦い笑いが浮かんできた。
「おい、それもだ」
その時、ナビを見守っていた看守は、ナビの左耳を指さして言った。
「私物は禁止だ。ここで、外していけ」
その言葉に、ナビは思わず左耳をかばうように手を当てた。
「……嫌です」
「何だと?」
思わぬナビの抵抗に、看守の目が吊り上がる。
「お願いですっ! これは……これだけは、嫌ですっ!」
食い下がるナビの手を掴んで、左耳から引きはがす。
「決まりだ。嫌も何もないっ!」
そう言って、無理やり左耳のピアスに伸びてきた手を、背後から伸びてきた手が強い力で掴んだ。
「チャン警査!」
看守の腕を掴んでいたのは、チョルスだった。
「何でこんなところに?! 管轄外でしょう!」
ギリギリと締め上げられるような腕の痛みに顔をしかめながら、看守が咎めるように大声を出す。
「そいつの頼みを聞いてやれ。責任は、俺がとる」
有無を言わさない口調で、チョルスがそう言うと、看守は上司に報告すると息巻いて暴れたが、腕を掴んだチョルスはビクともしなかった。
ジタバタともがく看守の肩越しに、チョルスはナビを見つめて小さく頷いた。
左耳をかばったまま、ナビはチョルスに向かって深々と頭を下げた。
脱獄防止用の鉄格子がはめられた窓から、差し込んでいた陽光が、急に陰った。
何気なく見上げたナビの視線の先で、窓に小さな雨粒が落ちる。
それが合図にように、次々に落ちてきた雨粒は、やがてひとつの筋になり、埃で汚れた窓を洗い流していった。
雨雲の彼方へ、ミンホを乗せた飛行機が飛び立っていく。
通り雨が過ぎ去った後、灰色だったソウルの街は、何事もなかったように色を取り戻し、陽の光を受け、喧騒と輝きを取り戻していった。
だって僕は、雨だから……
ほんの一瞬、肩先を濡らして。
おろしたてのスーツが台無しで、ツイてないけど悪くない。
そんな雨だから。
空が晴れたら、僕を忘れて。
通り雨に、降られたんだって。
第8章【通り雨のように】完
次週、2021.10.16(土)本編完結です!