8-9
*
実家に滞在しながら、スヨンは何度か兄のアパートに通った。
放置された郵便物の整理をしていた時、不意に大きな封筒に入った書類を見つけて手を止める。
封筒には、不動産会社の名前が書かれていた。
「……兄さん、これ何?」
封筒を掲げ持ち兄を振り返るが、相変わらずミンホから答えが返ってくることはない。
スヨンは仕方なく、本人の目の前で封を切ることにした。
封筒から取り出したそれは、ソウル郊外にあるマンションの仮契約書だった。
契約者は確かに、『ハン・ミンホ』となっている。
「引っ越しの予定が?」
そんな話を聞いたことがなかったスヨンは、首を傾げた。
一緒に入っていた部屋の図面は、ひとりで暮らすには広すぎるように思えた。
「……解約しないと。ここも引き払うんだし」
スヨンはそう言った後、ふと思い立ち、相変わらず何も映さない目でソファーに座っている兄の前に屈みこんだ。
「解約する前に、一緒に行ってみる?」
兄が引っ越し先として気に入って契約したなら、それなりの思い入れもあるだろう。もしかしたら、無くした記憶の糸口になるかもしれない。
スヨンはそう考えて、兄の手を取った。
仮契約書に書かれた住所を頼りに、スヨンはミンホを乗せてソウル郊外まで車を走らせた。
到着したのは、近年開発が進み、築浅の小奇麗な高層マンションが立ち並ぶエリアだった。
車を降りて、兄を促す。
不動産会社から聞いたオートロックの番号を打ち込み、ロビーを抜けてエレベーターへ乗り込むと、スヨンは『13階』の階層ボタンを押した。
目的のフロアにつくと、黒いドアがいくつも並ぶ共用廊下を抜けて、一番奥の部屋を目指す。
スヨンはさりげなくミンホの様子を伺ったが、兄は相変わらず力のない視線を前方に向けているだけで、この場所も、彼に何かを思い起こさせるきっかけにはなりそうもなかった。
こんなところまで来て、無駄足だったかも――
スヨンは早くもそんなことを考えていたが、せっかく来たのだから、せめて部屋の中は見ていこうと、そのまま黙って歩を進めた。
目的の部屋の前に立ち、ドアを開ける。
広々としたワンルームには、大きく南向きに開かれた窓から、晩夏の明るい陽光が部屋の中に降り注ぎ、真新しいフローリングに反射してキラキラと輝いていた。
「窓、開けるね」
スヨンはそう言うと、兄に断って靴を脱ぎ、蒸した空気を逃がすために部屋にあがった。
眼下には、晴れ渡ったソウルの街並みが広がっている。
「眺めが良くて、素敵な部屋ね」
玄関のところで立ち尽くしたままの兄を振り返り、改めて部屋の中を見回す。
「解約するのが、惜しいくらい」
まだ仮契約の段階で、家具らしい家具はひとつもないのに、なぜか大きなベッドがひとつだけ、部屋の隅に置かれていた。
(その図面、間違ってるよ――なんでベッドがひとつしかないのさ?)
(図面は間違ってませんよ。サイズ、よく見て)
「……壁側って、決めてたんだ」
「え?」
突然発せられた言葉に、それがミンホの口から出たものだということに、すぐには気が付かなかった。事故に巻き込まれてからというもの、兄が自分にまともな口を聞いたのはこれが初めてだった。
「寝相が悪いの、知ってたから」
それは、明らかにスヨンに向けられたものではなかったが、うわ言のようなその言葉でも、兄の記憶から何かを引き出せるかもしれない、そう思ってスヨンは短く問いかけた。
「誰が?」
誰が?――
だが、その問いでミンホの思考は寸断される。
こめかみをツキンとした鋭利な痛みが走り、ミンホにそれ以上、記憶を辿らせることを拒んだ。
スヨンはこめかみを押さえ苦しむ兄の元へ駆け寄り、その背を擦りながら尋ねた。
「兄さん、もしかして……いい人がいたの?」
(どんな部屋がいいですか?)
(……暖房が入る部屋)
(寒さなんて、感じないと思いますけど――)
暖かい部屋で、抱きしめる約束をした。
誰と?――
(先に、ベッド買っておきましょうか?)
無意識に伸ばしたミンホの手が、空をかく。
どこかで、抱きしめた腕をすり抜ける猫の声が、聞こえたような気がした。
*
面会室に足を踏み入れた途端、見慣れたプラチナブロンドの美しい男の顔を見て、ナビは思わず足を止めた。
男は立ちあがってナビを待つが、いつまでもこちらにやって来ないことに焦れて、大声でその名を呼んだ。
「ナビッ!」
ビクッと肩を震わせてから、叱られた子どものように、ナビはすごすごと男の前まで行き、椅子に腰を下ろした。
「……ジェビン兄貴」
眉間に皺を寄せるジェビンの横には、オーサーもいて、いつもの軽薄な調子で「ハーイ」とナビにヒラヒラ手を振って見せた。
「――全部聞いたぞ」
ジェビンが低い声でそう呟いた途端、ナビはハッとしたように目を見開き、続いて隣りのオーサーをキッと睨み付けた。
「何で、言っちゃうのぉっ!?」
ナビは精一杯の非難を込めたつもりで叫んだが、その素っ頓狂な声は緊迫したこの場面には酷く不釣り合いで、オーサーは腹を抱えて笑いだした。
「ごめんねぇ、ナビヤ」
「この男の口の軽さに、今回ばかりは感謝するぜ」
笑い転げるオーサーの膝を叩いて嗜めながらも、ジェビンは真っ直ぐにナビを見ると、再び眉間の皺を深くした。
「このままだったら、お前、収監されちまうぞ」
「……いいんだ」
「いいわけあるかっ!」
ジェビンが吠える。
「チョルスに全部話すぞ。今すぐ、お前を釈放しろって……」
「やめてっ!」
ナビは頭を振り、必死に叫んだ。
「お願い……お願いだから、ヒョン」
目の前で子どものように涙を流すナビの姿に、ジェビンは何も言えなくなる。
「……僕のこと、もう弟だって思わなくていいよ」
ナビがそう呟いた途端、ドンッと大きな音がして、ナビとジェビンたちを隔てるガラスの壁が、割れそうな勢いで揺れた。
「この壁に感謝しろよ――これがなかったら、今頃本気で拳固で殴ってるところだ」
ガラスを打ち付けた拳を震わせながら、立ち上がったジェビンはナビを見下ろす。
「出てきたら、たっぷり叱ってやるからな。兄貴は本気で怒ってるんだぞ。バカ弟がっ! お前がいなかったら、一人で開店準備しなきゃならないだろうが」
「いっそ、刑務所の前で店開こうか?」
兄弟の成り行きを見守っていたオーサーも、横から乱入してくる。
いつもの軽口を叩きながら、ガラスの向こうのナビに投げキッスを送った。
変わらぬ二人の優しさに、ナビは俯き、しゃっくりあげて泣くことでしか答えることができなかった。