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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第8章【通り雨のように】
207/219

8-9


 実家に滞在しながら、スヨンは何度か兄のアパートに通った。


 放置された郵便物の整理をしていた時、不意に大きな封筒に入った書類を見つけて手を止める。

 封筒には、不動産会社の名前が書かれていた。


「……兄さん、これ何?」


 封筒を掲げ持ち兄を振り返るが、相変わらずミンホから答えが返ってくることはない。

 スヨンは仕方なく、本人の目の前で封を切ることにした。


 封筒から取り出したそれは、ソウル郊外にあるマンションの仮契約書だった。

 契約者は確かに、『ハン・ミンホ』となっている。


「引っ越しの予定が?」


 そんな話を聞いたことがなかったスヨンは、首を傾げた。

 一緒に入っていた部屋の図面は、ひとりで暮らすには広すぎるように思えた。


「……解約しないと。ここも引き払うんだし」


 スヨンはそう言った後、ふと思い立ち、相変わらず何も映さない目でソファーに座っている兄の前に屈みこんだ。


「解約する前に、一緒に行ってみる?」


 兄が引っ越し先として気に入って契約したなら、それなりの思い入れもあるだろう。もしかしたら、無くした記憶の糸口になるかもしれない。

 スヨンはそう考えて、兄の手を取った。



 仮契約書に書かれた住所を頼りに、スヨンはミンホを乗せてソウル郊外まで車を走らせた。

 到着したのは、近年開発が進み、築浅の小奇麗な高層マンションが立ち並ぶエリアだった。


 車を降りて、兄を促す。


 不動産会社から聞いたオートロックの番号を打ち込み、ロビーを抜けてエレベーターへ乗り込むと、スヨンは『13階』の階層ボタンを押した。


 目的のフロアにつくと、黒いドアがいくつも並ぶ共用廊下を抜けて、一番奥の部屋を目指す。

 スヨンはさりげなくミンホの様子を伺ったが、兄は相変わらず力のない視線を前方に向けているだけで、この場所も、彼に何かを思い起こさせるきっかけにはなりそうもなかった。


 こんなところまで来て、無駄足だったかも――


 スヨンは早くもそんなことを考えていたが、せっかく来たのだから、せめて部屋の中は見ていこうと、そのまま黙って歩を進めた。


 目的の部屋の前に立ち、ドアを開ける。


 広々としたワンルームには、大きく南向きに開かれた窓から、晩夏の明るい陽光が部屋の中に降り注ぎ、真新しいフローリングに反射してキラキラと輝いていた。


「窓、開けるね」


 スヨンはそう言うと、兄に断って靴を脱ぎ、蒸した空気を逃がすために部屋にあがった。

 眼下には、晴れ渡ったソウルの街並みが広がっている。


「眺めが良くて、素敵な部屋ね」


 玄関のところで立ち尽くしたままの兄を振り返り、改めて部屋の中を見回す。


「解約するのが、惜しいくらい」


 まだ仮契約の段階で、家具らしい家具はひとつもないのに、なぜか大きなベッドがひとつだけ、部屋の隅に置かれていた。


(その図面、間違ってるよ――なんでベッドがひとつしかないのさ?)

(図面は間違ってませんよ。サイズ、よく見て)


「……壁側って、決めてたんだ」

「え?」


 突然発せられた言葉に、それがミンホの口から出たものだということに、すぐには気が付かなかった。事故に巻き込まれてからというもの、兄が自分にまともな口を聞いたのはこれが初めてだった。


「寝相が悪いの、知ってたから」


 それは、明らかにスヨンに向けられたものではなかったが、うわ言のようなその言葉でも、兄の記憶から何かを引き出せるかもしれない、そう思ってスヨンは短く問いかけた。


「誰が?」



 誰が?――



 だが、その問いでミンホの思考は寸断される。

 こめかみをツキンとした鋭利な痛みが走り、ミンホにそれ以上、記憶を辿らせることを拒んだ。

 スヨンはこめかみを押さえ苦しむ兄の元へ駆け寄り、その背を擦りながら尋ねた。


「兄さん、もしかして……いい人がいたの?」


(どんな部屋がいいですか?)

(……暖房が入る部屋)

(寒さなんて、感じないと思いますけど――)


 暖かい部屋で、抱きしめる約束をした。



 誰と?――



(先に、ベッド買っておきましょうか?)


 無意識に伸ばしたミンホの手が、くうをかく。

 どこかで、抱きしめた腕をすり抜ける猫の声が、聞こえたような気がした。





 面会室に足を踏み入れた途端、見慣れたプラチナブロンドの美しい男の顔を見て、ナビは思わず足を止めた。

 男は立ちあがってナビを待つが、いつまでもこちらにやって来ないことに焦れて、大声でその名を呼んだ。


「ナビッ!」


 ビクッと肩を震わせてから、叱られた子どものように、ナビはすごすごと男の前まで行き、椅子に腰を下ろした。


「……ジェビン兄貴ヒョン


 眉間に皺を寄せるジェビンの横には、オーサーもいて、いつもの軽薄な調子で「ハーイ」とナビにヒラヒラ手を振って見せた。


「――全部聞いたぞ」


 ジェビンが低い声でそう呟いた途端、ナビはハッとしたように目を見開き、続いて隣りのオーサーをキッと睨み付けた。


「何で、言っちゃうのぉっ!?」


 ナビは精一杯の非難を込めたつもりで叫んだが、その素っ頓狂な声は緊迫したこの場面には酷く不釣り合いで、オーサーは腹を抱えて笑いだした。


「ごめんねぇ、ナビヤ」

「この男の口の軽さに、今回ばかりは感謝するぜ」


 笑い転げるオーサーの膝を叩いてたしなめながらも、ジェビンは真っ直ぐにナビを見ると、再び眉間の皺を深くした。


「このままだったら、お前、収監されちまうぞ」

「……いいんだ」

「いいわけあるかっ!」


 ジェビンが吠える。


「チョルスに全部話すぞ。今すぐ、お前を釈放しろって……」

「やめてっ!」


 ナビはかぶりを振り、必死に叫んだ。


「お願い……お願いだから、ヒョン」


 目の前で子どものように涙を流すナビの姿に、ジェビンは何も言えなくなる。


「……僕のこと、もう弟だって思わなくていいよ」


 ナビがそう呟いた途端、ドンッと大きな音がして、ナビとジェビンたちを隔てるガラスの壁が、割れそうな勢いで揺れた。


「この壁に感謝しろよ――これがなかったら、今頃本気で拳固で殴ってるところだ」


 ガラスを打ち付けた拳を震わせながら、立ち上がったジェビンはナビを見下ろす。


「出てきたら、たっぷり叱ってやるからな。兄貴ヒョンは本気で怒ってるんだぞ。バカ弟がっ! お前がいなかったら、一人で開店準備しなきゃならないだろうが」


「いっそ、刑務所の前で店開こうか?」


 兄弟の成り行きを見守っていたオーサーも、横から乱入してくる。

 いつもの軽口を叩きながら、ガラスの向こうのナビに投げキッスを送った。


 変わらぬ二人の優しさに、ナビは俯き、しゃっくりあげて泣くことでしか答えることができなかった。



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