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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第8章【通り雨のように】
206/219

8-8


「……兄さん、入るわよ?」


 呼び出しブザーを鳴らしても応答がないため、母から預かっていた合鍵を使い、ドアを開ける。

玄関を開けると、ひとり暮らしのアパートのソファに座り、焦点のあっていない目で、ただ茫然と部屋の中に視線を泳がす兄の姿があった。


「大丈夫?」


 その姿があったことに安堵しながらも、いつもの生真面目でしっかり者の代名詞のような兄の様子を知っている分、変わり果てたその姿に戸惑いを隠せない。

 ソファーの端まで寄って初めて、兄は自分の姿を捉えた。近くで見ると、薄く無精髭が浮かんでいた。


「……スヨン」


 ミンホのすぐ下の妹スヨンは、母から連絡を受け、留学先のアメリカからすぐに一時帰国した。


 母の話では、ミンホは捜査中の事故で、今の捜査課に配属されてからの一時期の記憶を失っているという。

 身体に異常はないものの、終始このような状態のため、周囲の勧めもあり、循環補職としての任期を残しながら、休職することが決まっていた。


 家族で話し合い、休職中は環境を変えた療養を兼ねて、妹のスヨンがいるアメリカへ留学させることになっていた。


「……アパートの整理、手伝うよ」


 スヨンは兄の冷たい手を握り、語りかける。


「出発の日も近いし、ひとりじゃ大変でしょう? 母さんからも頼まれているから」


 ミンホはわずかに頷いたが、その視線はスヨンを通り越し、再び力なく(くう)をさまよった。


 そんな兄をソファーに残したまま、スヨンは主に代わって部屋の片づけを始める。

 元々が几帳面で真面目な性格のミンホの部屋は、キレイに整理整頓され、私物も最小限のものしかなかった。

 この様子なら、すぐに整理も終わり、近日中にこのアパートも引き払えるだろう。

 用意された段ボールの中に、手際よく荷物を詰めていくスヨンは、ふと窓辺に目をやり、その光景に思わず手を止めた。


 そこには、洗濯ばさみでリースのように吊り下げられた、逆立ちをしたテルテル坊主の大群がぶら下がっていた。


「兄さん、何これ? こんなにたくさん……」


 可笑しくも異様な光景に、スヨンは思わず兄を振り返る。

 迷信など信じない現実主義者の兄が、こんなに大量のテルテル坊主をつくり、ひとり暮らしのアパートに吊り下げている姿など、想像もできなかった。


 その時、ミンホの視線がわずかに揺れて、窓辺のくたびれたテルテル坊主に注がれた。


「捨ててもいい? 大分、汚れているし」


 そう言って、スヨンは兄に背を向けると、テルテル坊主のリースを外すために、背伸びをした。

 その時、不意に背後から伸びてきた手が、スヨンが触れるより早く、リースを掴んだ。その拍子にそれらを留めてあった洗濯ばさみがはじけ飛ぶ。


 スヨンが驚いて振り返ると、ミンホはその汚れたテルテル坊主たちを胸に抱きしめて、身体を二つに折るようにそこにうずくまっていた。


「兄さん?」


 兄を追いかけて、その顔を覗きこもうとした時、窓際に置かれたミンホの勉強机に、スヨンは思い切り腰をぶつけてしまった。


「……痛っ」


 思わず顔をしかめてぶつけたところに手をやれば、今度は机の上に広げてあった本が肘に当たり、バサバサと音を立てて床に散らばった。


「あーもう、ごめん!」


 スヨンはそう言って、連鎖的に起こった惨事を収集しようと、散らかしてしまった床の上に屈みこんだ。

 本には何か大量のメモ用紙が挟まっていて、それがテルテル坊主を抱きしめたままでいるミンホの周囲に紙吹雪のように散乱していた。


 そのメモの一部を手にとって、スヨンはふと動きを止める。


 そこに綴られているのは、達筆な兄の手とは似ても似つかない、拙い、子どものような筆跡だった。

 びっしりと敷き詰められたハングルは、詩の一節を書き写したもののようだ。


 ラングストン・ヒューズ詩集――


 メモと一緒に床に落ちた本の背表紙には、そう記されていた。




 パク・サンウとソン・ドンファ、ユン・ナビ――こと、シン・ハヌルが、逃亡中に一時期潜伏していた廃墟となったコンビニエンスストアの跡地から、この詩集が見つかった。

 現場に残された遺留品――彼らの脱ぎ捨てたシャツや食料、その中に混じって、なぜかミンホの名前が書かれた、この本が見つかったのだ。


 記憶のないミンホには心当たりも何もなかったが、詩集は本来の持ち主の元へと帰ってきた。

 中に、大量の拙いメモを挟み込んだ状態で。


 どこかの子どもに、詩集を使って読み書きを教えていたのか。

 そうも考えたが、見覚えのないその文字は、なぜかミンホの胸を強く締め付けた。



「兄さん。そこ、どうしたの?」


 散乱したメモを拾い集めていたスヨンは、ふとミンホの右の耳たぶに残る傷を見つけて言った。


「もしかして、ピアスの痕?」


 血が固まり、傷跡だけを残すその場所には、すでにそこを飾る筈のものはなかった。


「兄さん、ピアスなんて嫌いだったわよね。私が開けようとした時も、自分の身体に傷を付けるなんてって、大反対してたのに」


 ミンホは無意識に、自身の右の耳たぶに手をやる。


 熱を持っているようなそこは、未だにジンジンとした痛みを伝えてくるが、それ以上ミンホに何も教えてはくれなかった。



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