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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第8章【通り雨のように】
205/219

8-7



 チョルスの宣言どおり、頑ななナビは連日寝ずの取り調べを受けていた。

 ナビ自身も疲労の色は隠せないが、何度聞かれても不遜な態度は崩さず、答えることも同じだった。


 その時、取調室のドアを開けて、血走った目をしたチョルスが入ってきた。

 チョルスもナビに付き合って、寝ていないのは明らかだった。


「おい、代われ」


 ナビを尋問していた刑事の肩に手をかけると、先ほどまで彼が座っていた椅子に、チョルスは乱暴に腰を下ろした。


「おい、ユン・ナビ」


 寝不足も相まって、いつもより鋭い眼光がナビを射抜く。


「お前がパク・サンウを殺したって言うなら、どうやって殺した? え? どうやって奴の息の根を止めたか、一部始終を話せよ」


 これまで別の刑事からも際限なく聞かれた質問を繰り返すチョルスに、ナビはうんざりした態度で答える。


「だから、ナイフで刺したって言ってるでしょ」

「確かか? ナイフで刺して、サンウは死んだか?」


 探るようなチョルスの言葉に、ナビは声を張り上げて答える。


「だから、さっきから何べんもそう言ってるじゃない!」

「嘘をつくなっ!!」


 張り上げたナビの声よりも更に大きなチョルスの怒声と、ナビの目の前の机を叩きつける音が、狭い取調室の中に鳴り響く。

 ナビは思わず、ビクッと肩を震わせてしまう。


「サンウの直接の死因は、額を銃で打ち抜かれたことだ。即死だった」


 その表情の変化を逃すまいと、ナビを睨みつけたままチョルスは続ける。


「お前の言う通り、確かにナイフでの刺し傷はあったが、急所は外れていた。その時には、死んでいなかったはずだ」


 ナビの黒目勝ちな瞳が、大きく見開かれる。


「……サンウを撃った奴も、ついさっき捕まった。元治安総監パク・ヨンチョルの雇った殺し屋だ」


 チョルスの言葉を聞きながら、ナビの目から堪え切れずに涙が溢れ出す。


「今朝、ヨンチョルのマザーコンピューターがハッキングされて、それでこれまでの全てが明るみになったんだ」


 いつものナビに戻り、子どものように泣くその姿を見て、チョルスは刑事としての硬い声音を緩めた。


「だから、もう本当のことを話せ」


 ナビは膝に置いた手を握りしめて、俯いたままポロポロと涙をこぼした。


 ミンホじゃない、ミンホじゃない――


 嗚咽を漏らさぬよう、短く息を吐きだしながら、ナビは天にいるという神に、何度も何度も感謝を捧げた。


 神様、ありがとう。

 初めて、僕のお願いを聞いてくれた。


(ミンホをお守りください――僕はどうなっても構わないから――)


 あの夜の、路地裏の小さな猫の祈りは、いま天に聞き届けられた。


「お前、誰を庇ってる? まさか……」


 チョルスがその名を口にする前に、ナビは涙に濡れたままの顔をあげ、大きく首を横にふった。


「おい! ナビッ!」


 ナビのその反応は、却ってチョルスの予感を確信に変えた。


「ミンホは、アメリカへ行っちまうぞ」


 ナビの動きがピタリと止まる。


「いいのか? 行く前に、本当のことを、あいつに……」


 そう言ったチョルスの腕を、ナビはすがり付くように掴んだ。


「お願い、何も言わないで」

「……お前」

「サンウを刺したのは、僕だから……お願いだよ」


 泣きながら自分の腕にすがり付き、小さな声で何度も懇願するナビに、チョルスは何も言えなくなっていた。





 ソウルの繁華街の外れで、ソン・ドンファの遺体が発見された。

 ハッキング用のタブレットを抱えたまま息絶えたその顔には、満足げな笑みが浮かんでいた


「……知らなかったわ」


 白い布を静かに取り払い、スンミは、ただ眠っているような夫の耳元に話しかける。


「パソコンなんて、嫌いだって言ってたのに」


 そう言って首を傾げれば、目尻から溢れた涙がその頬を濡らす。


「知らないことだらけね……なのに、知る機会も、くれないのね」

「オンマ」


 その時、母スンミのスカートにしがみついていた娘のチェリンが、そっと裾を引いた。

 スンミが顔をあげると、遺体安置室の前にチョルスが立っていた。


「……スンミさん」


 何と声をかけていいか分からないチョルスは、そのまま口ごもりながら視線を床に落とす。

 スンミはそんなチョルスの、まだ癒えていない腕の傷に目をやった。


「チョルスさん、私――謝れません」


 スンミの言葉にチョルスが顔をあげると、スンミは涙を浮かべたまま微笑んだ。


「あなたも辛くて……そんな風にケガもさせてしまったけど……彼を逃がしたことを、私、やっぱり謝れません」


 スンミの足元でじっと母親とチョルスの様子をうかがっているチェリンの頭を優しく撫でながら、スンミは続けた。


「チョルスさん、覚えていますか? 彼に、他に好きな人がいるんじゃないかって言った日のこと」


 ドンファとの婚約時代、チョルスを喫茶店に呼び出し、ドンファの心の内を探ろうと、不安げに切り出した彼女の可憐な姿が蘇る。

 あり得ない、とチョルスが一笑にふしても、彼女の寂しげな笑顔が晴れることはなかった。


「いっそ、女の人だったら良かったのに……そしたらきっと、酷くなじって、気が済むまで叩いて、それで……許すことができたのに」


 いつも、どこか遠くを見ていた夫――


 自分と娘への確かな愛情を感じるのとは別のところで、彼の心はいつも違う何かに囚われているように感じていた。


「――結婚しても、片想い」


 ポツリと呟いたその言葉は、ドンファを最後に見送った後に思わず彼女が漏らしたのと同じものだった。


「……女の勘は、当たるのね」


 そう言って、スンミはドンファの遺体の横で、チェリンを抱きしめ泣き崩れた。

 チョルスはそんな親子の姿に唇を噛み締めると、二人の涙が乾くまで、ただ黙ってそばにいて、見守ってやった。




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