8-6
*
ソウル駅の下りホームに溢れる人波に押されて、危うくホームから転落しそうになっていた時、突然叫ばれた自分の名前に、心臓が止まるかと思った。
(ナビヒョンッ!)
対岸で叫ぶその長身の影は、ナビがもう二度と会うことは叶わないと思っていた男のものだった。
こんなところまで、追いかけてきてくれた――その事実が、ナビの胸を熱く締め付け、線路を挟んで対峙する彼の姿を涙で滲ませる。
(10数えて――)
ミンホにもちかけた勝負は、ナビ自身の願いでもあった。
(雨が降っている間に僕のこと捕まえられたら、お前のものになってやるよ)
ミンホに捕まったら、本当に彼のものになろうと思っていた。
サンウと一緒に死んでやらなければならないのに……
そんな僕を捕まえて。
離さないで。
サンウの元へ戻らずにいられない僕を、捕まえて。
そう願いながら、逃げ出したナビを、ミンホは嵐の中で捕らえ、抱きしめてくれた。
だからもう、他に望むことなどなかったのに――
まだ癒えていない傷に埋まった左耳のピアスに手を触れれば、嵐の夜に、自らの右耳に同じ傷を着けたミンホの姿が蘇る。
(これで、あなたは僕のものだし、僕はあなたのものだよ)
血を流しながら、そう誇らしげに微笑む彼を、これ以上ないほど愛おしいと思った。そして同時に、そんな彼を、自分の暗く、惨めな雨の中に巻き込んではならないと。
だから、どんなことをしてでも、守らなければ――
意識を無くしたミンホを乗せた車が、路地を曲がって見えなくなるまで見送ると、ナビは急いでサンウのアパートに戻った。
開いたままになったドアの向こうに身体を滑り込ませ、まだ薄暗い室内に目を凝らす。
窓際で身体を折るように横向きに倒れているサンウの側に膝をつき、恐る恐るその顔を覗き込む。彼が動く気配はなかった。
側には、先ほどミンホの手から引きはがしたナイフが無造作に落ちていた。
ナビは黙って、そのナイフを手に取ると、自分のシャツで丁寧に拭い、その上からしっかりと握りなおした。さらに、床を汚す血だまりに手を浸し、サンウの血をめちゃくちゃに自分のシャツに擦り付ける。
泣き出してしまわないように、大きく息を吸い込んで吐き出すと、血に汚れた手でポケットの携帯を取り出した。
震える手で、静かにボタンを押す。
短いコールの後、電話はすぐに繋がった。
『……事件ですか? 事故ですか? 何かありましたか?』
カラカラに乾いた喉が張り付き、思うように声が出せない。
『もしもし? 大丈夫ですか?』
ナビは無理やり唾を飲み込むと、掠れた声で呟いた。
「人を、殺しました」
*
人目につかない路地の奥で、命を垂れ流すように血を流し続けるドンファは、自身のシャツを割き、腰に巻き付けたタブレット端末を取り出した。
(先輩、いくら現場の人間だからって、これからの時代、パソコンのひとつも使いこなせないようじゃ、先はないですよ)
ITには全くといっていいほど疎かった自分をからかうチョルスの声が不意に脳裏を掠め、こんな状況でもドンファの口元を緩ませた。
バカにされながらも、チョルスに習っておいて良かった。
その後、自分が秘密裏に特訓を積んだことなど知る由もなく、まさかこんな使われ方をするとは思っていなかっただろうが――
ドンファは笑いながら、空を仰いだ。
見上げれば、雲の晴れ間から陽が差して、それはそのまま、一筋の光になり、ドンファがうずくまる暗い路地裏にまで届いた。
「……サンウよ。俺の、相棒」
呟く声は、青い空に吸い込まれる。
「最後くらいは、派手にいこうぜ」
そう言って、端末を開き、太い指でキーボードを叩いていく。
閉じかけた瞼の奥の小さな瞳に、画面を流れていく、意味をなさない英字の群れを映しながら、ドンファの指が最後のキーに伸びる。
「――あばよ」
その言葉と共に、静かにキーが押された。
『朝のニュースをお伝えします――』
慌ただしく先を急ぐ人の波を抱えたソウルの街を、街頭テレビが見下ろしている。
いつもの時間、いつものアナウンサーの声は、そんな行き交う人々の注意を特別に引くこともない。
それは、あくまでいつもの“日常”の一コマに過ぎない光景だった。
『次のニュースを――ここで、緊急速報です』
その時、アナウンサーの緊迫した声とともに、臨時ニュースを告げる音が街中に鳴り響いた。
その音に、道行く者たちの足が止まり、自然と街頭テレビやビルの電光掲示板に視線が移る。
『たった今、前治安総監パク・ヨンチョル氏に関する匿名の情報が寄せられました……内容は……』
ドンファが最後に押したキー――それは、一連の事件の黒幕であるパク・ヨンチョルのマザーコンピューターにアクセスして、情報漏洩を促すウイルスを発動させるものだった。
それは同時に、マスコミと警察のホストコンピューターとも連動し、ヨンチョルの悪事のすべてが、瞬時に双方のデータベースに暴露されるようプログラミングされていた。
『繰り返します……前治安総監パク・ヨンチョル氏に関する……』
道行く人々は街頭テレビにくぎ付けになり、朝のソウルの街に騒然とした波が広がっていく。それは、人々の喧騒から離れた路地裏で、うずくまるドンファの元にまでしっかりと届いた。
徐々に日は高くなり、眩しいほどの陽光が高層ビルの合間からソウルの街を焼き始める。
路地裏まで伸びた光は、口の端を上げて微笑むドンファの姿を、最後のスポットライトのように照らし出し、膝の上に置いたキーボードに乗せられていた無骨な手は、やがて静かにそこからこぼれ落ちた。