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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第8章【通り雨のように】
203/219

8-5


「――どうだ?」


 マジックミラー越しに、取り調べ室に座るナビを見つめるミンホの横顔に、チョルスが声をかける。

色のないガラスのような彼の瞳は、ナビの姿を捉えてはいるが、そこからは何の感情も読み取れなかった。


「……女の人、ですよね?」


 その言葉に、チョルスは少なからず驚いて尋ね返す。


「よく分かったな。何か思い出したのか?」


 しかし、ミンホは力なく首を横にふった。


「いえ……なんとなく、そんな気がしただけです」

「お前がここ数日、ずっと追ってた、重要参考人だ」

「……重要参考人」


 ――そして、お前が雨の中を狂ったように追いかけて、愛した奴だ


 自分の言葉を反復するミンホを見ながら、チョルスは思わず口をついて出そうになる言葉をグッと飲み込む。


「すみません……ちょっと、気分が……」


 言うなり、ミンホは眉間を押さえてグラリとよろめいた。そんなミンホの身体を、チョルスは慌てて支える。


「無理するな。お前もまだ本調子じゃないんだし。今日は、このくらいにしておこう」


 チョルスに背中を擦られ、ミンホは小さな声で、すみません……と繰り返した。

 外で控えていた別の警官にミンホを託すと、チョルスはもう一度、マジックミラーの向こうにいるナビに目を移す。


 俯いたナビの瞳から、不意に小さな雨粒が光って落ちたような気がした。

 だがそれは一瞬のことで、チョルスが驚いて再び目を凝らした時にはもう、顔を上げたナビは、その口許に不適な笑みを張り付かせていた。





「ハーイ! 調子はどう? 子猫ちゃん」


 面会室に足を踏み入れた途端、ガラスの向こうに見慣れた男の柔和な顔を見つけて、ナビは思わず泣き出してしまいそうになった。


「……先生、何で?」

「んー、堂々と抜け駆けしようと思ってね。今日は兄貴ジェビンは置いてきちゃった。後でバレたら、どやされるかな」 


 だから、内緒ね――そう言って、片目をつぶって見せる。


 普段と何も変わらないオーサーに、すがりついて甘えたくなる気持ちを押さえつけ、ナビはギュッと唇を引き結んだ。


「俺にまで、演技するのは止めてね。ナビヤ」


 そんなナビを見て、オーサーは優しく笑う。


「それに、せっかくの可愛い顔が台無しだよ。ほら、スマイルスマイル」


 そう言うと、自分の口角を左右から指で押し上げて、おどけた顔をしてみせる。ナビが観念して、思わず吹き出してしまうまで。


「うん、やっぱり可愛い」


 そんなナビのいつもの笑顔を見て、オーサーは満足げに笑うと、不意に声のトーンを落として呟いた。


「――使ったんだね、“魔法のクスリ”」


 その言葉に、ナビの肩がピクリと反応する。

 ナビの脳裏には、いつかの雨の日の、キャンピングカーでのオーサーとのやり取りが蘇る。




(嫌いだよ。タバコも、タバコを吸う先生も――)

(……ゴメンね、ナビ)


 オーサーの身体から立ち上る、雨と煙草の匂い。


(……お詫びにと言ったらなんだけど、いいものあげるから、泣かないで)


 シーツに雨粒のような涙を落とし続けるナビの、濡れた目尻を拭ってやりながら、オーサーは自身のデニムのズボンのポケットを探る。


(ほら、“魔法のクスリ”)


 そう言って、小さな瓶を人差し指と中指に挟んで、ナビに向かって軽く振って見せた。中に入った透明の液体が、チャプンと微かな音を立てる。


(……“魔法”?)


 一瞬キョトンとした顔で涙をおさめたナビだったが、すぐにまた、いつものオーサーの悪ふざけなのだと思い、にわかにムゥッと口を尖らせる。

 一人で百面相に忙しいナビを見て、オーサーは肩をすくめて笑った。


(本当だよ。ナビが言ったんじゃない。ヒョンスにあげて欲しいって)



 ――大人になってからのさ、すれ違っちゃった記憶だけ消して、また昔に戻れる薬。先生は、天才なんでしょ? ユリとヒョンスを、昔に戻してあげてよ



 それは明慶大にミンホと潜入していた時――


 潜入先で、親しくなった学生のヒョンスに、恋い慕うユリと幸せになって欲しい――そんな一心から、一斉摘発の前夜に、ナビが発した言葉だった。


(……お守り代わりに、ナビにあげる。いつか、使いたくなる時が来るかもしれないから)


 そう言って、ナビの胸のポケットにそっとその小瓶を忍ばせた。




 記憶の中のオーサーと、ガラス越しに対面している今の彼の姿が、ナビの中で静かに重なった。

 何も言えずにいるナビに、オーサーは寂しげな笑みを浮かべて言った。


「あれはね、ナビヤ。いつか君が、自分で飲むかもしれないと思ったんだよ。どうしても忘れなきゃやっていけない、辛い記憶……消しゴムで消せるなら、消して――あのオマワリさんと幸せになればいい、そう思って渡したのに」


 オーサーはゆっくりと息を吐いてから、ナビを見つめる。


「バカな子だね、本当に。王子様に一服盛るなんて」

「先生……」


 途端に、ナビの瞳から、これまで堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出した。


「……ウッ……フゥッ……ウゥ」


 ガラス越しに、しゃくりあげるナビに向かって、オーサーは優しく続きを語りかけた。


「あの薬はね、ナビヤ……本当は、記憶を全部消してしまえる、魔法のクスリなんかじゃないんだよ。エデン事件の学生たち――薬抜きをした後の子どもたちに飲ませたものだけど。あれは、良くも悪くも、記憶の中で一番鮮烈な印象を残すもの、それがあった一時期だけを、薄れさせるものに過ぎないんだよ。効果は一生か、数年か、数日か……個人差がありすぎて分からない。でも、本人にとって鮮烈であればあるほど、消し去る効果は高いんだ」


 そこまで言って、オーサーは言葉を切ると、改めてナビを見つめて静かに言った。


「――あのオマワリさんの記憶の中で、君は本当に特別な存在だったんだね」


 ガラスに阻まれ、手の届かないナビに向かって、それでもオーサーは手を伸ばした。


「君の覚悟もよく分かったから、もう一つだけ言わせて。あの日、俺の言った言葉も、覚えている?」


 涙で顔をグシャグシャにしたナビが顔をあげる。

 そんなナビに、オーサーはあの日と同じセリフをもう一度静かに、だが、はっきりと口にした。



 ――忘れることが、本当に幸せ?




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