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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第8章【通り雨のように】
202/219

8-4

「……俺の息子は、どうした?」


 その言葉に、ミンホは初めて口を開いた。


「ナビヒョンは、“息子”でも、“あなたのもの”でもない」


 毅然とした口調で、ミンホは続ける。


「僕は、最後の取り引きに来たんです」

「取り引き?」


 サンウは息を吐き出して笑うと、肘をついて、自身の身体を起こすよう力を込めた。


「面白いな、警察の坊やが。お前が俺と、どんな取り引きをするって?」


 窓の下の壁に背中を預け、呼吸を乱しながらも、サンウは挑発するようにミンホに向かって顎を上げて見せた。

 そんなサンウに、ミンホは生真面目に答える。


「もしナビヒョンを諦めて、このまま消えてくれるなら、僕らはあなたやソン警査をこれ以上追わないと約束します」

「嫌だと言ったら?」


 サンウの瞳が、暗い色を宿してギラリと光る。

 それに対する答えとして、ミンホは腰のポケットから取り出したナイフを、静かにサンウに向けた。


「あなたを殺してでも、ナビヒョンを連れてなんか行かせません」


 途端に、サンウは弾かれたように笑い出した。


「意外とクソ度胸があるんだな。見直したよ、刑事さん」


 壁に背を預けたまま、サンウはわざと大仰に手を叩いてみせる。

 そして、人差し指を曲げて、ミンホに自分の傍へ跪くよう促す。


 ミンホは握りしめたナイフを手放さないまま、サンウの請うまま、床に膝を付き、彼と目線を合わせた。


 サンウはミンホの端正な顔が近付いてきた途端、彼の首の後ろへ手を回し、グッと自分に引き寄せた。

 眉を顰めたくなるような死臭が、既にサンウからは立ち上ってくるようで、ミンホは思わず息を詰めた。


「だが、何と言われようと、俺はあいつを手放す気はない」


 据えた息を吐き散らしながら、サンウは下卑た調子でミンホの耳元に囁きかけた。


「お前も、あいつとヤッたんだろう。どうだった、あいつは? 可愛い顔して、イイだろう。癖になるよな。俺が仕込んでやったんだ」


 吐き気を噛み殺して、ミンホは湧き上がる憎悪に眉根を寄せる。


「あなたは、どこまで下劣な人なんだ」


 こんな男にずっと悩まされていたなんて、ナビが不憫すぎる。


「……あなたに、生きる資格なんてない」


 思わずそう呟くミンホに、サンウは笑みのように唇の端を歪めた。


「そうさ。だから、殺れよ。間違えるなよ。急所は、ここだ」


 サンウは自分に向けられた、ミンホのナイフの先を握り込んだ。

 目を見開くミンホの前で力を込めて握ってやれば、サンウの血を吸ったナイフは、ポタリポタリとサンウの赤い命の滴を落として、床を汚した。


「ここで俺を止めないと、俺はハヌルを諦めないぜ」


 枯れ枝のような身体のどこにそんな力が残っていたというのか。

サンウはミンホのナイフを握った手を、自分の脇腹に突き付けて挑発する。指の隙間から覗くナイフを這う血が、徐々にその範囲を広げていく。


「あいつは、どんな声で鳴いたんだ? 俺の首に手を回したみたいに、あんたのこともこうやって」


 そう言って、サンウはナイフを握っていないもう一方の手を伸ばし、ミンホの首筋を撫でた。

その瞬間、反射的にサンウを振り払おうとしたミンホは、血に滑ったナイフをサンウの脇腹に沈めていた。





「とどめを刺してくれよ。急所外しやがった、下手くそが」


 わき腹からドクドクと血を流したまま、サンウはドンファを見上げる。


「死ぬつもりだったのか?」


 静かにそう問うドンファに、サンウは若いころの面影を唯一残している八重歯をのぞかせて笑った。


「知らなかったのか? 俺は意外に臆病なんだぜ。坊やに手伝ってもらおうと思ったのに」

「馬鹿なことを!」


 ドンファは怒りを露わに、止血する手に力を込める。


「だから、お前が続きを……」

「断るっ!」


 一瞬、サンウすらひるむ剣幕でドンファは怒鳴った。


「……そんなに、怒らなくても」

「お前が、あんまりにも馬鹿だからだ」


 ドンファは着ていた自分のシャツの袖を歯で引きちぎって、血を流すサンウのわき腹に巻きつける。


「悪かったよ……仮にも、警官のお前に……」

「違うっ!」


 ドンファは頭を振って、サンウの言葉を遮る。


「現に俺は、コ・ジョンスンも、ホン・サンギョも殺ってる人殺しだ」

「じゃあ、なんで――」

「俺が、やりたくないから」


 ドンファはサンウの止血をする手を止めて俯いた。

 分厚い瞼の下の鋭い眼光はなりをひそめて、代わりに、その目にはわずかに涙が滲んでいた。


「俺が、パク・サンウを死なせたくないから」


 それは子ども時代の、のろまのドンファと言われていた頃の彼の眼差しを思い出させる。下町の王様キング、サンウを愛し崇拝していた彼の顔だった。


 ミンホの持つナイフが脇腹を割き、痛みに気を失いかけている時、開いたドアの向こうから、ハヌルが入ってきたのが分かった。

 隣でナイフを持ったまま立ちすくむ奴に、すがりつくお前。


(お前っ、お前っ……何でこんな、何でこんなことをっ?!)

(ミンホッ……離してっ、ナイフ、離してよぉっ!)


 転びそうになりながら、あいつを庇い出ていくお前の背中を見送った時、ああ、もうこのまま死んでもいい――そう思えたんだ。


 幸せになれ、ハヌル。

 俺が、言えた義理じゃないが。


「立てよ。夜が明けきる前に、逃げるぞ」

「瀕死の俺に立てってか? 鬼だな、お前」

「だから、手を貸してやってるだろう」


 サンウの身体を引き上げ、肩に手を回した時、開いたままになっていたアパートのドアの陰から、音もなく、黒いスーツに身を包んだ男たちが部屋の中に滑り込んできた。


「……なんだ、お前ら」


 汗と脂の浮いた顔を歪ませ、ドンファが男たちを睨みつける。


兄貴ヨンチョルか。相変わらず、手際がいいな」


 サンウが苦く笑うのと同時に、男たちは無言のまま、その銃口を二人に向けた。


「サンッ……」


 咄嗟にドンファがサンウの身体を庇うのより早く、チュンッと小さな音がして、その闇をのぞかせる銃口から放たれた弾丸が、サンウの額を打ち抜いた。

 銃には消音装置が装着されており、サンウを狙ったこの男たち――その背後にいる人物の、周到さを物語っていた。


 抱え込んだサンウの後頭部からドクドクと溢れる血が、ドンファの手をこぼれ落ち、アパートの床を汚していく。

 覆い被さったドンファの身体の下で目を開けたまま、サンウはすでに息絶えていた。


 チュンッ――チュンッ――


 続けて音がして、ドンファの左足と脇腹に、焼けつくような激痛が走った。

 サンウを抱えたまま、肩越しに振り返ったドンファは、力を振り絞って腰に下げた銃身に手を伸ばすと、男たちに向けて発砲した。


 一瞬できた隙をついて、ドンファは窓を乗り越えると、その傷ついた身体を白み始めた明け方の空へと躍らせた。



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