表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第8章【通り雨のように】
201/219

8-3


 売人から調達したモルヒネの入ったジェラルミンケースを抱え、ドンファは闇にまぎれて、ソウル郊外の路地を足早にサンウの待つアパートに向かっていた。


 既にサンウの病状からは、気休めにもならない代物であったが、幾分かでもサンウの苦痛が和らぐのなら、どんな危険を冒しても手に入れるべきものだった。


 アパートに到着し、足音を立てないように階段を登り終えた時、サンウのいるはずのアパートのドアが開いた。


 ドンファは咄嗟に、空き部屋になっている隣の部屋のドアの陰に身を隠した。

 ドアに背を向け、ほんの僅かに空けた隙間から、外の様子を窺う。


 サンウのいる部屋から出てきたのは、ナビとチョルスの現在の相棒――ハン・ミンホだった。


 ナビは足をもつれさせながらも、体躯の大きいミンホを庇うように抱え、ドンファの目の前を通り過ぎながら、階段を下りていく。

 二人が通った後、僅かに血の匂いがドンファの鼻をついた。


 咄嗟に、ドンファは腰に収めた銃身に手を伸ばした。

 逃げるようにアパートを後にする二人に銃口を向けるべきか、ドンファは素早く逡巡する。


 だが今は、血の匂いを漂わせた二人を追うよりも、部屋の中にいるはずのサンウの安否の方が気がかりだった。


 二人の足音が完全に消えた後、ドンファはドアを開け、サンウの待つ部屋へと急いだ。


「……サンウ?」


 暗闇の中で、声を顰めながらも、ドンファの低い声は部屋の中によく響いた。

 雨脚はだいぶ弱まってきていたが、外ではまだ稲妻が走り、時折、薄暗い室内を強い光で照らしだしていた。


「……いるなら返事しろ」


 ドンファが先ほどよりも強めに囁くと、返事の代わりに部屋の奥で低いうめき声がそれに答えた。


「サンウッ?!」


 ドンファが慌てて駆け寄ると、窓の傍で虫の息のサンウが、血まみれの顔を歪め、片目を開けてドンファを見上げた。サンウのわき腹からは、雷鳴に毒々しく映えるどす黒い血が溢れ出し、床を汚していた。


「お前っ!」


 ドンファが跪き、サンウの傷口を押さえると、なぜかサンウは嬉しそうに目を細めて言った。


「……やりやがった……あのガキ」





 窓を叩きつける雨の跡を見上げながら、サンウは一人、暗いアパートの床に身を横たえていた。

 ドンファに連れて来られたのは、ナビ――ハヌルと最後の数年間を過ごしたこのアパートだった。


 ここで、ハヌルを暴力的に抱いた後、こうして雨を見上げながら、幾度タバコをふかしたか分からない。背後から見つめるハヌルの視線を感じながら、いつ突き落とされるか――そんなことをよく考えていたことを思い出す。


 本当は自分も、それを望んでいたのではないか。

 窓から突き落とす代わりに、ハヌルは自分を追っていた警官を招き入れ、自分の身柄を警察に売り渡した。


 そうされて、当然だ。

 お前には、そうする権利があったんだ。


 なのに、兄ヨンチョルとの取引で、分不相応なハヌルとの海外逃亡資金を手に入れ、浮かれた自分がまき散らした札束が舞うアパートの中で、ハヌルはどうしようもない目で自分を見つめていた。

 警官に背中を踏みつけられ、汚い金が宙を舞う中、今にも泣きそうな顔で俺を見下ろすお前。


 お前は、唾を吐きかけたって良かったんだ。

 お前を“息子”にしたユジンの仕打ちを酷いと思いながら、それでもユジンの面影を重ねて、お前を無理やり自分のものにした俺に。


 恨みだけを込めて、俺を見れば良かったのに。


 だから、忘れられなかった。

 お前を、諦めきれなかった。

 身勝手な言い分だと分かっている。


 ユン・ナビとしての幸せを、俺には決して味あわせてやることのできなかった、9年分の幸せを手にしていたお前を、骨と皮だけの華奢な身体に、俺が付けた無残な痣だけを巣食わせていた、哀れなシン・ハヌルに無理やり引き戻してでも、一緒にいたかった。


 死を迎えるまでの短い間でいい。

 ろくでもない俺の“家族”は、ただ一人、お前だけだから――


 ドンファが用意してくれた隠れ家で、枯れ枝のように変わり果てた俺を見たお前は、9年前のあの時と同じように、やっぱり、どうしようもない目で俺を見ていたな。


 憎みきれれば、少しは楽になるのに。

 俺のような“父親”にさえ、お前は涙を流すんだ。

 だから、俺はいつまでも、お前を諦めることが出来ないんだ。



 激しくも単調な雨のリズムは、サンウに夢と現の間を彷徨わせる。

 ぼんやりとした意識の向こうから、再び発作がやってくる気配がしている。


 ドンファの到着まで持たないか――そんなことを考えていた時、不意にアパートのドアが開く気配がした。


 外の湿った、嵐の夜の生ぬるい空気が、サンウの乾いた頬を撫でていく。


「……ドンファ?」


 薄く眼を開け、首だけを回してドアの方を見やると、そこには馴染みのない長身の影が立っていた。

 影は一言も発せず、アパートの床を静かに踏みしめて、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。


 一歩踏み出す度に、古いアパートの床が、ミシリ――と軋んだ音を立てた。


 影がサンウのすぐ傍まで来て彼を見下ろした時、窓の外の雷光が、見下ろす男の端正な顔を照らしだした。


「……お前と、落ち合う約束はしてないはずだぜ」


 サンウは苦しげな息の下からも、皮肉気に口の端を歪めた。


狎鴎亭アックジョンの宝石店以来だな」


 ミンホは眉ひとつ動かさずに、冷たい目でサンウを見下ろしている。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

◆◇◆参加ランキング◆◇◆
気に入っていただけたら、是非ワンクリック♪お願いします。
cont_access.php?citi_cont_id=217012595&s 38.gif

◆◇◆本家小説サイト◆◇◆
20210703195116.jpg
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ