8-3
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売人から調達したモルヒネの入ったジェラルミンケースを抱え、ドンファは闇にまぎれて、ソウル郊外の路地を足早にサンウの待つアパートに向かっていた。
既にサンウの病状からは、気休めにもならない代物であったが、幾分かでもサンウの苦痛が和らぐのなら、どんな危険を冒しても手に入れるべきものだった。
アパートに到着し、足音を立てないように階段を登り終えた時、サンウのいるはずのアパートのドアが開いた。
ドンファは咄嗟に、空き部屋になっている隣の部屋のドアの陰に身を隠した。
ドアに背を向け、ほんの僅かに空けた隙間から、外の様子を窺う。
サンウのいる部屋から出てきたのは、ナビとチョルスの現在の相棒――ハン・ミンホだった。
ナビは足をもつれさせながらも、体躯の大きいミンホを庇うように抱え、ドンファの目の前を通り過ぎながら、階段を下りていく。
二人が通った後、僅かに血の匂いがドンファの鼻をついた。
咄嗟に、ドンファは腰に収めた銃身に手を伸ばした。
逃げるようにアパートを後にする二人に銃口を向けるべきか、ドンファは素早く逡巡する。
だが今は、血の匂いを漂わせた二人を追うよりも、部屋の中にいるはずのサンウの安否の方が気がかりだった。
二人の足音が完全に消えた後、ドンファはドアを開け、サンウの待つ部屋へと急いだ。
「……サンウ?」
暗闇の中で、声を顰めながらも、ドンファの低い声は部屋の中によく響いた。
雨脚はだいぶ弱まってきていたが、外ではまだ稲妻が走り、時折、薄暗い室内を強い光で照らしだしていた。
「……いるなら返事しろ」
ドンファが先ほどよりも強めに囁くと、返事の代わりに部屋の奥で低いうめき声がそれに答えた。
「サンウッ?!」
ドンファが慌てて駆け寄ると、窓の傍で虫の息のサンウが、血まみれの顔を歪め、片目を開けてドンファを見上げた。サンウのわき腹からは、雷鳴に毒々しく映えるどす黒い血が溢れ出し、床を汚していた。
「お前っ!」
ドンファが跪き、サンウの傷口を押さえると、なぜかサンウは嬉しそうに目を細めて言った。
「……やりやがった……あのガキ」
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窓を叩きつける雨の跡を見上げながら、サンウは一人、暗いアパートの床に身を横たえていた。
ドンファに連れて来られたのは、ナビ――ハヌルと最後の数年間を過ごしたこのアパートだった。
ここで、ハヌルを暴力的に抱いた後、こうして雨を見上げながら、幾度タバコをふかしたか分からない。背後から見つめるハヌルの視線を感じながら、いつ突き落とされるか――そんなことをよく考えていたことを思い出す。
本当は自分も、それを望んでいたのではないか。
窓から突き落とす代わりに、ハヌルは自分を追っていた警官を招き入れ、自分の身柄を警察に売り渡した。
そうされて、当然だ。
お前には、そうする権利があったんだ。
なのに、兄ヨンチョルとの取引で、分不相応なハヌルとの海外逃亡資金を手に入れ、浮かれた自分がまき散らした札束が舞うアパートの中で、ハヌルはどうしようもない目で自分を見つめていた。
警官に背中を踏みつけられ、汚い金が宙を舞う中、今にも泣きそうな顔で俺を見下ろすお前。
お前は、唾を吐きかけたって良かったんだ。
お前を“息子”にしたユジンの仕打ちを酷いと思いながら、それでもユジンの面影を重ねて、お前を無理やり自分のものにした俺に。
恨みだけを込めて、俺を見れば良かったのに。
だから、忘れられなかった。
お前を、諦めきれなかった。
身勝手な言い分だと分かっている。
ユン・ナビとしての幸せを、俺には決して味あわせてやることのできなかった、9年分の幸せを手にしていたお前を、骨と皮だけの華奢な身体に、俺が付けた無残な痣だけを巣食わせていた、哀れなシン・ハヌルに無理やり引き戻してでも、一緒にいたかった。
死を迎えるまでの短い間でいい。
ろくでもない俺の“家族”は、ただ一人、お前だけだから――
ドンファが用意してくれた隠れ家で、枯れ枝のように変わり果てた俺を見たお前は、9年前のあの時と同じように、やっぱり、どうしようもない目で俺を見ていたな。
憎みきれれば、少しは楽になるのに。
俺のような“父親”にさえ、お前は涙を流すんだ。
だから、俺はいつまでも、お前を諦めることが出来ないんだ。
激しくも単調な雨のリズムは、サンウに夢と現の間を彷徨わせる。
ぼんやりとした意識の向こうから、再び発作がやってくる気配がしている。
ドンファの到着まで持たないか――そんなことを考えていた時、不意にアパートのドアが開く気配がした。
外の湿った、嵐の夜の生ぬるい空気が、サンウの乾いた頬を撫でていく。
「……ドンファ?」
薄く眼を開け、首だけを回してドアの方を見やると、そこには馴染みのない長身の影が立っていた。
影は一言も発せず、アパートの床を静かに踏みしめて、ゆっくりとこちらに向かって歩いてくる。
一歩踏み出す度に、古いアパートの床が、ミシリ――と軋んだ音を立てた。
影がサンウのすぐ傍まで来て彼を見下ろした時、窓の外の雷光が、見下ろす男の端正な顔を照らしだした。
「……お前と、落ち合う約束はしてないはずだぜ」
サンウは苦しげな息の下からも、皮肉気に口の端を歪めた。
「狎鴎亭の宝石店以来だな」
ミンホは眉ひとつ動かさずに、冷たい目でサンウを見下ろしている。