7-23
相変わらず嵐の名残の雷鳴が鳴り響いているが、遠く東の空は、もう白み始めている。
誰かに姿を見られる前に、ミンホの身をどこかに隠さなければ。
自分よりも遥かに身体の大きなミンホを引き摺るように、ナビは先ほどタクシーを降りた路地へと向かう。
こんな状態のミンホを連れて、遠くまで歩いて逃げるのは不可能だ。
夜が明け、起き出した街の誰かにこんな姿を見られたら、全てが終わってしまう。
ナビは肩で息をしながら、人一人がやっと通れるほどの路地の陰にミンホの身体を押し込み、その身体に重なるように自分も路地に入りこんだ。
一歩路地を出れば、明け方で交通量はごくまばらながらも、ヘッドライトをつけた車が、水しぶきを飛ばしながら往来している。
だが、道路からこの路地は死角になっているため、薄暗いこの時間帯なら尚更、ナビたちの様子が外から覗われる心配はなかった。
壁を背にしたミンホを至近距離で見上げ、ナビはそっと、その青ざめた頬を両手のひらで包みこんだ。
「……ごめんね、ミンホ」
滑らかなその頬の感触を忘れないように、何度も小さな手のひらで擦る。
焦点の合っていないミンホの目から、自然に涙が溢れだす。
ナビは片手でミンホの頬に触れたまま、ズボンのポケットに手を入れた。
取りだした小さな瓶の蓋を親指で弾くと、ナビは上を向いて、中の液体を全て口の中に流し込んだ。
「ナビヒョ……?!」
ミンホがその名を呼び終わらぬ内に、ナビは両手でミンホのシャツの襟元を掴み、強い力で引き寄せると、そのまま深く口づけた。
「……ッ」
無防備な喉元に、ナビが舌で無理やり押し込む液体が落ちていく。
不意打ちともいえる強引なキスは、ミンホに抵抗する間さえ与えなかった。
「……ンッ……ンンッ」
コクンッと上下する喉仏に合わせて、トロリとした液体がゆっくりとミンホの体内へと落ちていく。
ミンホが完全に飲み込むまで、ナビは決してミンホの襟元から手を離さなかった。
「……ン、ハアッ!」
ナビの口内の最後の一滴までも受け入れさせられたミンホは、ようやく長い口づけを止めたナビの肩を掴んだ。
「ナビヒョン……あなた、一体、何を飲ませ……」
そう言った瞬間、グラリ――と、ミンホの視界が傾いだ。
反射的に今飲んだ液体を吐きだそうと、口内に指を入れようとしたミンホの手を掴み、ナビは逆に自分の手のひらでミンホの口を塞いだ。
「……忘れて、ミンホ……辛いことは、全部」
強い力で口を塞ぎながら、その手は声と同じくらい震えている。
「な……にを……」
「……目が覚めた時には、全部、忘れてるから」
ミンホと視線を合わせたまま、ナビは無理やり微笑もうとしたが、上手くいかなかった。
最後に彼の目に映るのはやはり、笑顔の自分でありたかったのに。
「イヤ、だ――こんなのは、イヤですっ……ナビヒョンッ!」
ミンホは徐々に狭まる視界と、薄れて行く意識に必死に抗いながら、もがくようにナビの肩に縋る。
ミンホの流す涙が、口を塞ぐナビの手を熱く濡らしていく。
「……ナビヒョ……ナ……ビ……」
ズルズルと崩れ落ちるミンホを追って、ナビも冷たい路地に座りこむ。
肩を掴んでいたミンホの手から徐々に力が抜け、やがてパタリと投げ出すように、濡れた路面に落ちた。
「――雨は止んだよ。お前にはやっぱり、明るい太陽の下が似合うから」
頬を濡らしたまま、ナビはほほ笑む。
意識を失ったミンホの脇を抱え、人気がないことを確認してから、暗い路地裏からその身体を引き出し、敢えて人目につくところへ、その身体を横たえる。
その時、ニャー――という鳴き声とともに、ナビの足元に灰色の猫が絡まるように身体を摺り寄せて来た。
驚いて飛びあがったナビだったが、その猫の姿を改めて見下ろした時、更に驚くことになった。
「オンマッ!」
それは、9年前にジェビンに拾われた時から、本当の母親のようにナビに寄り添い続けて来た、老猫の“オンマ”だった。
「お前、どうしてこんなところに? 一体、どうやって……」
ナビは相変わらず貧弱で毛並みの悪いオンマの背中を撫でながら、寂しげに微笑んだ。
「不詳の息子を、助けに来てくれたの?」
オンマは物言いたげにナビを見つめていたが、横たわるミンホの頬をザラリとした舌で一舐めすると、そのまま踊るように車道に飛び出した。
ナビが止める間もなく、オンマはちょうど走って来た車のボンネットに、体当たりする勢いで飛び乗った。
オンマに飛び乗られた車は、驚いて急ブレーキを引いた。
アスファルトをタイヤが擦る音と、盛大に上がる水飛沫。
姿を見られてはまずいナビは、慌てて元いた路地裏に身を隠した。
「何なんだよ、一体?! 猫、轢いちまったか?」
車から降りて来た男は、明け方の思いもよらない災難に悪態をつきながら、周囲を恐る恐る点検する。助手席にも若い男が一人同乗していた。
その頃オンマは既に、何事もなかったように身を翻し、ナビのいる路地裏へと姿を隠していた。
その時、助手席の男が歩道に倒れているミンホの姿に気がついた。
「お、おいっ! そこ、人が倒れてるっ!」
車外にいた男に声をかけ、助手席の男も外へ出て来た。
「おいっ! 大丈夫か」
車外にいた男の方が先にミンホの傍にやってきて肩を揺さぶったが、その拍子にかけてあったシャツが外れ、現れた胸一面を汚す血痕に、思わず悲鳴を上げた。
「きゅっ……救急車……」
「いや、ここからだったら直接病院に行った方が近いっ!」
腰を抜かしそうな仲間を叱責して、男たちは二人かかりでミンホの身体を起こし、自分たちの車の後部座席へ押し込んだ。
男たちは慌てて、ミンホを乗せたまま車を急発進させた。
白み始めた、東の空の方角へ、ミンホを乗せた車が走り去っていく。
ナビはオンマを抱いたまま、その光景を目に焼き付けた。
嵐は過ぎ去り、夏らしい焼けつくような陽光が、やがてあの空を焼くだろう。
雨とともに生き、日の光の届かない路地裏でお前を見送る猫のことなど、忘れて生きていけばいい――
(――お前にはやっぱり、明るい太陽の下が似合うから)
路地裏の灰色の猫には過ぎた夢でも、幸せだった。
お前が雨を忘れても、陽だまりのようなお前に抱かれた記憶は、ずっと僕が覚えているから。
第七章【嵐の夜に】完