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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第7章【嵐の夜に】
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7-22


 ナビはタクシーを捕まえようと大通りに出た。

 始発も走る前の時間帯のため、移動手段はそれしかなかった。


 濡れた路面にネオンの光が反射して、そこを水しぶきを上げながら走り去るタクシーを何台か見送った後、ようやく背伸びをしながら手を上げるナビの前で、一台の車が止まった。

 既に『回送中』の札を下げていたにも関わらず、雨の中で傘もささずにジャンプするようにタクシーに手を振るナビを、見過ごせなかったのだ。


「こんな嵐の晩に、どこ行くんだい? お客さん」


 ドアを開けた途端、運転手は呆れたような視線を投げる。


「あと二時間もすれば始発も動くんだし、ネットカフェにでも入って時間を潰したらどうだい?」


 嵐のせいで電車のダイヤに大幅な遅れが生じ、その煽りを受けて一晩中走り続けた彼は、ようやく本社に戻り帰宅しようとしていたところだった。


「お願い、急いでるんだ。ここに――」


 そう言って、ナビは自分のシャツの胸ポケットに手を入れた。

 その時、指先がそこにある筈のものに触れないことに気がついた。

 胸を上から触り、続いてズボンのポケット、あらゆる自分の身体の箇所をパンパンと叩いてみる。

 だが、ナビが期待している紙の感触はどこにもない。


「落とした? どこで……」


 その時、ナビの脳裏に突然、先ほどまでミンホと一緒に過ごしていた、モーテルの部屋の情景が浮かんできた。


 からまるシーツ。


 その上に無造作に投げ出されたお互いの衣服。

 

 自分が部屋を出て行く時の、ミンホの寝顔――


「……まさか」


 不吉な予感に、ナビの呼吸が浅くなる。


「まったく、今日はどうなってるんだ。この前の路地でも、若い兄さんがタクシーを止めようと……」


 言いかけた運転手の言葉に、ナビは運転席の方へ身を乗り出して尋ねた。


「どこの路地?」

「ひとつ前の、ホラ、あの駅前のホテル街だよ」

「どんなひと?」

「どんなって……前を走ってた後輩の車に乗ってったから、良くは見えなかったけど。えらく背の高い……」


 嫌な予感が確信に変わっていく。

 ナビは腕を伸ばし、運転手の肩を掴んだ。


「運転手さんっ! お願い、急いでっ。場所は――」


 メモを見る迄もなく、ドンファに渡されたその場所の住所は頭に入っていた。

 ミンホを一人で行かせてはならない。

 ナビは後部座席に背中を預け、手を組むと、初めてどこにいるかも分からない神に祈った。

 生まれてこの方、ただの一度も手を差し伸べてもらったことのない神に。

 一生に一度だけ、もしも願いが叶うのだとしたら。


 ミンホをお守りください――

 僕はどうなっても構わないから――


 ナビは固く目を瞑り、心の中で必死にそう唱え続けた。





 ナビを乗せたタクシーは、ソウル市街から外れた、うら寂しい路地に頭を突っ込んで止まった。


「お客さんの言う住所からするとこの辺りだけど、本当にこんなところで降ろしていいのかい?」


 運転手は、後部座席のナビを振り返って言った。

 彼の言う通り、路地の先で灰色にくすみ夜に沈んでいるのは、廃墟としか思えない古びたアパートの群れだった。


「ありがとう、運転手さん」


 ナビは急いで彼に紙幣を払うと「用事が済むまで待っていようか」という彼の親切な申し出を断って、タクシーを降りた。

 灰色のアパートの一つを目指し、ナビは水たまりを蹴りながら走る。


 ここは、サンウと過ごし、最後にサンウと別れたあのアパートだ。

 人間は辛すぎる記憶を忘れることで自分を守るという本能がある――そう教えてくれたのは、オーサーだった。

 だとすれば、サンウを売ったあの夜の記憶の重みに耐えかねて、自分も手放せる筈なのに。


 やっぱり、人間じゃなくてナビだから――帰巣本能があるのかな。


 場違いにそんなことを考えてしまう自分に、ナビは自嘲気味に唇を歪めた。


 『203号室』と札の下げられた部屋の前に立つ。

 腐りかけた木製のドアは開いており、強い風に煽られ、パタンパタンと音を立てて開閉を繰り返していた。


 ドアが開いた瞬間、鋭い雷光が窓を横切り、暗い室内の様子が浮かび上がった。


 こちらを背にして立つ、長身の影。

 その足元に横たわる、枯れ木を思わせる、痩せた男の身体。


 ドンッ――


 遠くで、雷の落ちる音がした。


「……ミ……」


 ナビの足がガクガクと震えだす。

 もう一度、窓の外を稲妻が走り、今度はハッキリとナビの目に、こちらを背にダラリと両手を下ろした影の手に握られた、鈍い光を放つナイフが見えた。


「ミンホッ!!」


 叫んで駆け寄ったナビの前で、ミンホはナイフを持った手を弛緩させたまま、首だけを回してナビを振り返った。

 ミンホの白いシャツの前面は、真っ赤な返り血で染まっていた。


「お前っ、お前っ……何でこんな、何でこんなことをっ?!」


 ナビは必死で、ナイフを握るミンホの手に取りすがる。

 ミンホは弛緩しながらも、指先は固まったように強い力でナイフを握りこんでいて、なかなか離そうとしない。


「……あなたを、自由にしてあげたかったんだ」


 うわ言のように、ミンホが呟く。


「ミンホッ……離してっ、ナイフ、離してよぉっ!」


 ナビは泣きながら、固く閉ざされたミンホの指を、一本一本引き剥がしてゆく。

 床に横たわるサンウの身体から今も溢れ出る血が、アパートの床を汚し、ナビの足元をも滑らせる。


 カラーンッ――


 ようやくミンホの手を離れたナイフが、冷たい音を立てて床の血だまりの中へ落ちた。

 ナビは部屋の隅に置かれた、サンウの衣服が詰められたナップザックに駆け寄ると、そこからシャツを掴みだし、ミンホの身体を正面から抱きしめるようにして、血で汚れたシャツの前面を隠した。


「逃げるよ、ミンホ。ここから、早くっ」


 ナビは放心するミンホを抱きしめたまま、何度も転びそうになりながら、アパートの階段を下りた。




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