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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第7章【嵐の夜に】
194/219

7-19

「ナビヒョンッ!」


 ミンホはホームの端ギリギリまで踏み出して、その名を叫ぶ。

 ハッとしたように顔を上げた影は、そこで初めて、ミンホの姿に気がついた。


 野球帽のツバに隠れた黒目勝ちの瞳は大きく見開かれ、驚き過ぎて、その唇からは何の言葉も紡げずにいる。


「そこで待っていて! 動かないでっ!」


 ミンホはそう言うと、そのまま線路に降りて反対側のホームへ駆け寄ろうと一歩踏み出した。

 途端に影はおろおろと背中を向けて逃げ出そうとしたが、既にホームの上の溢れんばかりの人垣に押され、退路を失っていた。


 ミンホが線路に飛び降りようとしたその時、ナビは突然振り返った。


「ミンホッ!」


 久しぶりに自分の名を呼ぶのは、愛してやまなかった、あの少し掠れた声に違いなかった。


「勝負しようぜ!」


 ナビは、この場に酷く不釣り合いな、明るい声で叫ぶ。


「……な……にを」


 それはミンホに、明慶大学に二人で潜入していた際、毎日振り回されイライラさせられながらも、その無邪気さにいつも毒気を抜かれていた、あの頃のことを思い出させた。

 今この場でそんな様子を見せるナビの真意が分からず、ミンホは混乱しきった頭でナビの次の言葉を待つ。


「10数えて――」


 ナビは小さな両手をかざして、ミンホに向かって『10』の形に開いて見せた。


「……雨が降っている間に僕のこと捕まえられたら、お前のものになってやるよ」


 そう言うと、ほんの少しだけ首を傾げ、ミンホに向かって微笑んで見せる。


 ミンホが何も言えずにいると、ナビはそのまま帽子のツバに手をやり、視線を落とした。

 ナビの瞳が見えなくなると、代わりにその唇が、ミンホの同意を待たずに、カウントダウンを始める。


シプ…………パル……」

「ナビヒョンッ! 待ってっ!」


 ミンホはホームの端ギリギリの所を立ったまま、自分勝手に数を数えるナビに呼び掛ける。だが無情にも、ナビのカウントは終わりに向かって刻まれていく。


サム…………イル

「ナビヒョンッ!」


 ミンホの叫びとナビが最後のカウントを数えるのと同時に、ゴオッ――という爆音を立てて、左右から同時に特急列車が猛スピードでホームに滑り込んできた。


 一瞬で、ナビの姿が掻き消える。


「クソッ」


 まるで図ったようなそのタイミングにミンホは頭を掻き毟りながら、二人の間を阻む鉄の塊が行き過ぎるのを待つ。


 だが嵐のように疾走した列車が消えた後のホームに、既にナビの姿は無かった。


「……どうして? 何であなたは……いつも……」


 悔しさとやり切れない思いに血が滲むほど唇を噛みしめて、ミンホは人でごった返すホームを駆け出す。肩がぶつかり盛大に悪態をつかれても、ミンホは構わず走り続ける。


 絶対に、捕まえてみせる――

 こんなに近くにいて、逃がしてたまるか――


 ミンホは大声でナビの名を叫びながら、ソウル駅の中を走り続ける。






 その頃ナビは、地下通路の柱の陰に身を隠していた。


「ナビヒョンッ! ナビヒョンッッ!」


 柱の陰から、ミンホの声と足音を聞く。

 何日も、彼はこうして叫びながら、自分のことを探してくれていたのだろう。普段は低く響きのある声が、苦しそうに掠れていた。


 出て行って縋りつきたい気持ちを抑えるように、ナビは強く握った拳を口元に当てる。それは、抑えても抑えても込み上げてくる嗚咽を、無理やり押さえ込むためでもあった。


 そうしていなければ、泣き声が漏れて、きっとミンホに見つかってしまう。

 フッ……フッ……と声を殺して、ナビは拳に歯を当てる。


 不意に、先ほどまで聞こえていた、自分を呼ぶミンホの声が止んだ。

 自分の前を通り過ぎて行ったのかもしれない。

 柱から身を乗り出すことが出来ない代わりに、ナビは背中に神経を集中させて、ミンホの気配を探す。


 確かに、そこに彼の気配を見つけることは出来なかった。


 安堵とも苦しさともつかない気持ちが湧きあがり、それを抑えるため、ナビはもう一方の手で、着ていたTシャツの胸元を掴んだ。


 その時だった。



 ジャリ――



 革靴がコンクリートの床を踏みしめる音にナビが振り返るより早く、強い力で肩を掴まれた。


「っな?!」


 驚く間もなく、そのまま身体を反転させられ、気付いた時には両腕を拘束されたまま、柱に押し付けられていた。

 目の前には、激しく上下する広い胸がある。


「……下手クソですよ、隠れるのが」


 息を喘がせながら、低い声が降って来る。


「僕は、捕まえるのが仕事ですから」


 手首を掴んでいた腕が下りて来て、そのまま華奢な顎を掴む。

 グイッと無理やり顔を上げられて、至近距離でその目に射抜かれると、呼吸が止まった。


「――もう、逃がさない」





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