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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第7章【嵐の夜に】
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7-18


「……ッウ……ハアッ」


 汚れたマットレスの上でしきりに寝返りを打ちながら、先ほどからサンウの呼吸は荒く乱れていた。注意して耳を澄ませていたつもりだったが、いつの間にか眠っていたらしく、ナビは目の前で本格的に苦しみ始めたサンウの唸り声で、目を覚ました。


「サンウ?……サンウッ!」


 慌ててサンウの枕元に駆け寄り、その肩を掴む。


「苦しいの? どうしたの、サンウッ!」


 サンウは固く目を閉じ、額に脂汗を浮かべている。乾いて血が滲んだ唇を、食いしばった歯の内側から涌いた泡が汚している。


「どうした?」


 少し離れたところで見張りに立っていたドンファも、騒ぎを聞きつけて駆け寄って来た。


「……サンウが」


 泣きそうなナビの腕の中にいるサンウを見て、ドンファはすぐさま、枕元に置いてあったジェラルミンケースを乱暴に開ける。

 ゴムチューブを取りだし、荒っぽいながらも慣れた手つきでサンウの腕に巻き付け、浮き上がって来たどす黒く変色した静脈に、注射針を力ずくで押し込む。サンウの皮膚は硬くなり、針をなかなか受け付けなくなっていた。


 サンウはビクリと身体を大きく痙攣させ、しばらくは苦しげな呼吸を続けていたが、やがてそれも落ち着くと、胸が一定のリズムを刻んで上下するようになった。


 一瞬安堵の表情を見せたドンファだったが、床に投げ出されたままのジェラルミンケースを振り返ると、その表情を一変させ、盛大に舌打ちした。


 サンウの苦痛を救う唯一のモルヒネは、これが最後の一本だった。


 進行する病状に合わせて、もう随分前から通常の量では足りなくなっており、薬の減り方もドンファの目算を遥かに超えていた。


「……ヤクを、調達してこなけりゃな」


 ドンファはナビに視線を戻すと、静かにそう言った。


「どこかに行くの?」


 不安になって尋ねるナビに、ドンファは眉間に皺を寄せ、しばらく思案する素振りを見せた。


「……次にヤクが切れたら、おしまいだ。それに、この場所が見つかるのも時間の問題だ」


 沈黙を破ったドンファは、苦しげにそう告げる。


 確かに、今三人が身を隠している廃墟と化したコンビニエンスストアの跡地は、警察の包囲網を強行突破してきた海沿いの倉庫から、そう離れた距離にはなかった。


「車も乗り捨ててきた今じゃ、三人で動くのは危険すぎる。お前は夜が明けたら先に行って、何日か潜伏してもいいように、食糧を調達して来てくれ。俺もすぐにサンウを連れて出て、奴を別の場所に隠したら、ヤクを手に入れてくる」


 そう言うと、ドンファはメモ帳の切れ端に、走り書きでソウルの外れの住所を書いた。


「明日、夜明け前にここで落ち合おう」


 ナビの手に、無理やり握らせるようにメモを押し付ける。


「……いいの?」

「何が?」


 既にナビに背を向けて、眠るサンウのシャツを脱がせようと支度を始めていたドンファは、その小さな声に振り返った。


「僕、逃げるかもしれないよ」


 怯えるようにそう呟いたナビを見た時、ドンファの目に一瞬憐れみの影がよぎった。


「……お前さんは、逃げないさ」

「何でっ?!」


 そう叫ぶナビに、ドンファはただ静かに答えた。


「お前さん自身が、逃げたいと思っていないから」


 その言葉は、ナビにとっては酷く残酷なものだった。


 認めたくない――そう思っていても、ドンファは自分の本心を見抜いている。


 そう、自分は逃げられないのではなく、逃げないのだ。

 さらわれたわけではない。

 他ならぬ自分の意思で、サンウの傍にいるのだ。 


 倉庫で車窓越しに、あんなにも自分を求めてくれたミンホの顔が、目に焼きついて離れないというのに。





 ミンホは傘も差さずに、遠くに霞む、ソウル駅のガラス張りの駅舎を目指して歩いていた。


 雨は徐々に激しさを増し、風も強くなってきた。日暮れが近づく西の空は禍々しい赤い色に染まり、これから訪れる嵐の予感を感じさせた。


 海沿いの貨物倉庫でナビたちを逃がしてから3日、本当に言葉どおり、飲まず食わずでナビの姿を探した。

 どんなにチョルスやクムジャたちに止められても、ジッとしてなどいられなかった。


 車窓越しに、何かを言いかけていたナビ――。


 小さな拳で窓ガラスを叩いて、あの一瞬、ナビは間違いなく自分を見ていた。


 先ほど、捜査課の無線でチョルスから知らされた事実がある。

 今朝早く、三人が、あの倉庫からほど近い、廃墟になったコンビニエンスストア跡地に潜伏していた形跡が見つかったという。


 あと少し早く気付いていれば――歯噛みしたい気持ちを抑えて、ミンホは空を仰ぐ。

 

 まだそう遠くへは行っていないはず。


 この同じ空の下にナビがいるなら、わずかな望みをつないで、自分はどこまでも追いかける。

ミンホはシャツの胸元を握りしめて視線を戻すと、フラつきながらも、吸い寄せられるようにソウル駅の駅舎の中へ入って行った。


 駅の中は、台風上陸のニュースが朝から世間を賑わせていたため、退社時間を早めた会社員や、授業が途中で休講になった学生たちなどでごった返していた。


 夏の熱気と相まって、ひといきれのムッとする空気に息を詰めながら、ミンホは憔悴した顔に、眼だけをギラギラと光らせながら、すれ違う人々を睨みつけるように歩いた。中にはそんなミンホを怖がって、あからさまに避けて歩く者もいた。


 ナビの名を心の中で繰り返し叫びながら、ミンホはいつの間にか改札を通り抜け、急行電車が行き交う、駅のホームに立っていた。


 ミンホのいる上り電車のホームも人で溢れていたが、向かいの下りホームはもっと酷かった。

 家路を急ぐ人の群れがまるで、黒い大きな塊のようだった。


 そんな光景を眺めていると、不意にその人垣から、小さな影が前方へ弾き出されるのが見えた。


 危ない――そう思って、よろけてホームから落ちそうになっているその影を追って、ミンホは思わず目を走らせる。



 黒い野球帽を目深に被ったその影が、ぐらりとバランスを崩した拍子に、左耳のところで強い光が反射して揺れた。


 ミンホの目が、大きく見開かれる。

 影は、対岸にいるミンホの姿にまだ気が付いていない。


 ドクンッ……ドクンッ……


 ミンホの鼓動が、音を立てて大きくなる。


 野球帽からこぼれた黒髪が汗で白いうなじに張り付き、対岸の影は、小さな手を拳の形にしたまま、首の汗を拭った。



 それは、ミンホが気が狂いそうになるくらい探し求め続けた“彼”その人に違いなかった。



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