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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第7章【嵐の夜に】
192/219

7-17

 ドンファの黒い瞳の表面には、窓から入り込む月の明かりが揺れるだけで、その奥にある感情まで読み取れない。


「お前が背負って逝くのなら、別れた女房と娘の身の安全は俺が保障する。お前が聖智で稼いだ金の一部で、最低限の生活を送れるよう面倒も見てやる」

「……俺に、死ねって……そう言うのか?」


 サンギョの目から、決壊したように涙が溢れる。

身体の震えに合わせて、縋るように掴んだ柵がガタガタを音を立てる。


「女房と娘を守ってやる方法は、それしかない」


 説き伏せるでもなく、冷淡な口調でそう告げるドンファを睨み上げながらも、サンギョはやがてズルズルと力を無くし、柵にかけていた手を解いた。

 俯き、冷たい床に手をついたままポタポタと零れ落ちる涙を手の甲で弾かせながら、どのくらいの時間そうしていたのだろう。

 やがてサンギョは、床に散った残酷な白さを持つ紙を引き寄せ、ドンファが投げ入れたペンを拾った。


「私――ホン・サンギョ警査は……」


 抑揚のない声で、ドンファは予め用意してあったサンギョの遺書に書き込むべき言葉を読み上げる。

 震える手で書かれる文字は、後から後からとめどなく溢れる涙で書いた傍から滲んでいく。

 やがて最後のサインを終えると、鎌を振り下ろす死神さながらに、ドンファは三つ目になる『白』をサンギョの拘置所の中に投げ入れた。


 何の変哲もないタオル。


 だがそれはまさに、サンギョの命を断ち切るための処刑道具に他ならなかった。

 サンギョは泣きながらそれを拾い上げ、柵の上部にくくり付けた。

 ドンファに背を向けて、輪にした中に首を通そうとタオルを持ち上げる。

 だが、勝手に震える体はどうすることも出来ず、どうしてもそこに首を通すことが出来ない。


「……あ……やっぱり……ダメ……だ……」


 サンギョは真っ赤に充血し泣きはらした目でドンファを振り返った。

 そこには、懇願するように命乞いをするサンギョの姿があった。


「……怖い……死ぬのは……怖……」


 サンギョの言葉を最後まで聞き終わらぬ内に、ドンファは解けかけたタオルの両端を掴んだ。


「……ぅぐぅっ!!」


 耳を塞ぎたくなるような苦悶の声を上げて、サンギョの踵が浮き上がる。

 拘置所の柵越しに、タオルでサンギョの首を締め上げるドンファは、その太い腕に血管の跡を浮き上がらせながら、更に強い力で締め続ける。

 命の危機に対する本能的な恐怖から、サンギョに爪を立てられたドンファの腕からは血が滲む。

 パキッっと、妙に軽い乾いた音がして、サンギョの喉の骨が折れる音がした。

 不意に、腕に食い込んでいたサンギョの爪から力が抜けた。

 パタンッ――と音を立てて落ちた手に続いて、脱力した身体がズルリと拘置所の柵を伝って、床に倒れた。

 反動で、柵の向こうでバランスを崩したドンファも床に倒れこむ。


「……ッハァ……ハアッ……」


 胸を押さえて喘ぎながら、サンギョに抉られた腕の傷を舐める。


(……怖い……死ぬのは……怖……)


 最期に涙ながらにそう訴えたサンギョの姿が、不意にサンウと重なった。

 ドンファはその声を振り切るように頭を振ると、まだ思うようにならない足を引きずって身体を起こした。

 拘置所の柵にブラブラと揺れている、サンギョの命を奪ったタオルを解いて、冷たく物言わぬ姿に成り果てたサンギョの首に再び結わえ直すと、腕の血管を浮かび上がらせながら、再び力を入れてその身体を持ち上げた。

 柵に通したタオルでサンギョの首を締め上げたまま、サンギョの身体を吊り上げ、そのまま固定する。

 窓から差し込む月明かりの中で、座り込むような格好でこちらに背を向けるサンギョを一度だけ振り返ると、ドンファはそのままその場を後にした。


そして仕上げに、敢えて告訴をせず、初めから口を塞ぐことを前提に計画の中に引き入れたコ・ジョンスンの始末が残っていた。

不起訴になり釈放されるのを待って、自分を刺せと命じたコ・ジョンスンを、ドンファは警察署の丘の上から狙撃した。

 それは、同乗していたオーサーへ、これ以上首を突っ込むなという警告でもあった。





 捜査課の扉が開くと同時に、全身をずぶ濡れにした長身の影が、倒れこむように部屋の中に入ってきた。


「ミンホ君っ!」


 真っ先に悲鳴を上げたのはクムジャだった。

 ユラリとバランスを崩し倒れこみそうになるミンホの身体を、慌てて支えに行く。


「……すみません、姉さん」


 ミンホに掴まれたクムジャの肩が、ミンホが連れてきた雨の水分を吸ってしっとりと濡れる。


「こんなにずぶ濡れになって……」


 クムジャな半泣きの顔で、タオルを探して部屋の中を見回す。

 その時、クムジャが探すタオルを手にズカズカと近寄ってきたのは、右腕を三角巾で吊ったチョルスだった。


「ミンホッ! お前、いい加減にしろよ」


 チョルスは怒ったように、ミンホの頭にタオルを投げつける。

 ミンホはそれを受け取ると、水滴を垂らす短い髪を片手で乱暴に拭った。


「……ちょっと休んだら、また出てきます」


 チョルスから目を逸らしそう呟いたミンホに、チョルスの怒りが爆発する。


「ふざけんなっ! あれから、寝ずに食わずにずっと働き通しじゃねぇか! そうやってずっと、ソウル中探し回るつもりか?!」

「必要だったらソウルだけじゃない、韓国中だって探すつもりです」

「そんな単独行動、誰が許した?」

「チョルスヒョンが動けないなら、仕方ないじゃないですか」

「お前っ!!」


 自由になる方の左手で思わずミンホの胸倉を掴んだチョルスを、クムジャが慌てて間に入って止める。


「止めなさいっ! いい加減にしなきゃいけないのは、あんたも一緒よっ!」


 クムジャに取りなされ、チョルスは鋭い目でミンホを睨みつけたまま、クムジャに肩を押されながら身体を引く。


「あんたも、腕の怪我が治りきってないのよ。二人とも休みなさい。こんなんじゃ、まともな捜査なんか出来ないわよ」


 今にも泣き出してしまいそうなクムジャの手前、チョルスとミンホはそれ以上争うことができなくなってしまった。

 チョルスが負傷して以来、ミンホはずっと一人で、狂ったようにソウルの街をナビの姿を求めて探し続けた。


 あの日、車の窓から一瞬だけ見えたナビの顔が脳裏に焼きついて離れない。

 目をいっぱいに見開いて、あの時確かにナビは、自分を見ていた。

 何かを叫ぶように口を開け、車の窓を叩いたナビの小さな拳。

 耳をすませようとした瞬間に、爆音とともにシャッターを突き破り、車はナビを乗せたままミンホの前から消えてしまった。


 捜査の途中、車の中で仮眠を取るミンホの浅い眠りの中で、いつも夢はその場面で終わる。

 スローモーションのように流れた束の間の再会と、最後まで彼の声を拾えなかった自分。

 焦燥感でいっぱいになって、いつもそこで目が覚める。


「……行ってきます」

「ミンホッ!」

「ミンホ君っ!!」


 二人を振り切って、ミンホは濡れた身体のまま、再び捜査課を後にした。

 ほんの一瞬も、ジッとしてなどいられなかった。


『次は天気予報です。大陸を渡ってきた台風13号は、北西に進路を取り……』


 雨で薄暗い捜査課の室内で、ずっと付けっぱなしにしてあったテレビが淡々とニュースを読み上げる。


『肥大化した台風が、今夜未明にかけてソウルに上陸する恐れが……』


 クムジャがハッとしたようにテレビを振り返る。

 まだ昼と呼んでよい時間帯なのに、窓から見上げる空は不吉な黒い雲が渦巻き、ソウルから太陽の光を奪っていた。


「……ミンホ君」

「あの、バカッ!!」


 チョルスは自由にならない右手のもどかしさも手伝って、誰にぶつけて良いか分からない苛立ちを、目の前のデスクを蹴り上げることで紛らわした。


 嵐が、すぐそこまで迫っていた――



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