7-16
サンウが塀の向こうに消えて9年の歳月が過ぎた頃、時は皮肉な現実を連れて、再びドンファに味方する。
サンウが拘束されてからずっと、内部からの秘密裏の面会を欠かしたことのないドンファだったが、サンウの身に起こりつつある異変にはなかなか気付けなかった。
元々喘息気味だったサンウが咳き込んでも大した心配などしなったが、それが結果的に、後のドンファを後悔してもし足りぬ現実に突き落とすこととなる。
あまりにも長く続く咳に耐えかねて、警察病院のコネを使って精密検査を受けさせたその席で、ドンファは初めて、サンウが末期の肺ガンに侵されていることを知った。
もう、残されている時間は無かった。
のんびりとサンウの出所を待っていられなくなったドンファは、遂にある行動に出る。
サンウを犠牲にして得た治安正監の座に君臨し続けたヨンチョルだったが、それだけで満足するような男ではない。ドンファの読み通り、ヨンチョルの周辺を探り、彼が政界進出を目指していると知ったドンファは、9年前とは別に、今度は自らヨンチョルに『資金繰り』の話を提案した。
正監の座に着くよりも畑の違う今度のステージに上るためには、9年前とは比較にならないほどの『汚い金』が入用になるのは目に見えていた。
ドンファはヨンチョルに、再び明慶大学と手を結び、合成ドラック『エデン』の密売計画を実行するよう持ちかけた。
流すドラッグは警察の押収品を粗悪なものに加工して量産したものであり、足がつく心配もなければ、流せる薬の量も無尽蔵で、何より一切の薬の管理をドンファ一人で行うことができた。仲介に入った闇ブローカーの値段交渉で決裂した末の裏切りが、事件が明るみに出るきっかけになった9年前とは、そこが決定的に違っていた。
ドンファは、そこで得る莫大な利益金の全てをヨンチョルにくれてやると約束した。
ただ一つ、サンウの出所を交換条件として。
密売の舞台に再び明慶大学を選んだのは、学長に対して9年前に対立候補を消してやった貸しがあることに加え、息子であるガンホを、高校時代にホン・サンギョが補導した経緯があったからだった。
妻と別れてから、ますますギャンブルに狂うようになっていたサンギョに対して、ドンファは『密売の便宜』を餌に、ガンホに近づくよう指示した。
金に飢えていたサンギョは飛びついた。
ガンホの父親である学長から手に入れる密売の利益のうち、報告分よりも多くサンギョがくすねていたことは分かっていたが、そんなことは些細なことだった。
捌く薬の量が足りなくなってきた丁度その頃、ソウル内の主要な大学を標的にした『一斉摘発』の話が持ち上がった。
既に粗悪な『エデン』は若者たちの間に浸透していたが、ヨンチョルが望む金の量には到底届いていなかった。
販売ルートの本流である明慶大学には予めサンギョを使って情報を流した上で、ドンファはもう一つの計画を実行する。
押収した薬の改ざん、浅はかな学生を使った杜撰な販売ルートの確立、コトがいつまでも隠し遂せると思うほど、ドンファも甘い考えを持っているわけではなかった。
いずれ全てが明るみに出たとしても、その先に繋がるヨンチョルへの金の流れは、何としてでも公にする訳にはいかなかった。ヨンチョルがスキャンダルで力を失えば、サンウの出所も夢と消える。そして、出所した後のサンウとの当面の生活費は、ヨンチョルを頼っていた。
そしてドンファは、もう一つの計画を静かに実行に移す。
サンウが自由の身になった時、病に侵された彼には自分がずっと付いてやるしかない。警官の職にあったままでは、それもままならない。
自由に動くためにドンファは決意し、一斉摘発の前夜『エデン』の常習者の若者の溜まり場へ一人忍んで行き、一人の若者に囁いた。
明日、摘発でしょっ引くが、言う通りにしてくれるなら、お前たちだけ罪を軽くして早めに出所させてやる。
信じられないのなら、この金がその証拠だ。
お前に頼みたいことは二つ。
一つは取り調べの時、薬は友人が『ペニー・レイン』で手に入れたと証言すること。
明慶から流した合成ドラッグの薬抜きを、『ペニー・レイン』に身を置いたオーサーがしているのだとドンファは早い段階で気付いていた。しかし、この計画がオーサーやジェビンに感づかれてしまっては元もこもなかった。
あわよくば『ペニー・レイン』の面々を拘置所にぶち込み、その間にハヌルだけをサンウのためにさらうことも考えていた。
そして、最後の頼み。
これこそが、最も重要なことだった。
「拘置所にぶち込まれた夜、俺を刺せ。間違えるなよ……ここだ」
そう言って、ドンファは札束を握って青ざめる若者の手を握り、自分の腰に強い力で押し付けた。
脊椎を傷つければ下半身不随になることは分かりきっていたが、サンウの死を見取るまで側にいるためには、そしてなるべく長い間自分たちに捜査の手が及ばないよう時間を稼ぐためには、自らの身を投げ出すことさえ、ドンファは厭わなかった。
全治三ヶ月、その後も重篤な後遺症が残ると診断された傷を負いながらも、ドンファは一人、スンミの目さえ盗んでサンウの出所に備えた。
チョルスが自分の代わりに相棒になったミンホと明慶大学を捜査しているのを知って、警察内部から薬が出回っていることに気付かれるのは時間の問題だと思った。
捜査の手が伸びてきて、怯え出したサンギョをノラリクラリとかわしながら、立件されることが分かっていながら泳がせ続けた。
明慶での事件が摘発され、サンギョの身柄が拘束されるのも、ドンファにとっては計画通りのことだった。
小心者のサンギョが、自分やヨンチョルとの関りを黙っていられるとは思えない。
最初から、サンギョに罪を着せ、口を封じるつもりだった。
サンギョのいる拘置所に深夜忍んで行ったドンファに、サンギョは泣きながら食ってかかった。
「話が違うぞっ! 俺を見捨てて……俺はやっぱり捨て駒だったのか?!」
拘置所の柵をガタガタと揺らしながら、唾を飛ばして怒り狂うサンギョを、ドンファは冷たく一瞥して、夜目に妙に鮮やかに白く光る一枚の紙をヒラリと拘置所の中に投げ入れた。
「どれだけの金をヤクザに借りた? 明慶で稼ぎきる前に捕まったのは紛れもないお前のミスだろう? 途中にくすねた金でも払いきれない金額じゃあ、俺にも救ってやりようがない。ここを無事に出られても、タダで済むと思うのか? 警察がお前を諦めても、ヤクザはそんなに優しくない。捕まって、死ぬより酷い目に合わされるぞ」
足元に落ちた、サンギョの多重債務を示す資料を丸めて、サンギョは拘置所の柵の向こうにいるドンファに向かって投げつけた。
丸めた紙は、ドンファの頬を掠めて夜の闇の中に消える。
「お前だけじゃない。別れた妻子にもあいつらの手は伸びてくるだろうな。娘は、13? 14か? 夜の街に立たせるには充分……」
「やめろっ!!」
堪らず、サンギョは柵を掴んで吼えた。
そんなサンギョに、ドンファは二枚目となる白い紙を差し入れた。
今度の紙には、何も書かれていなかった。
「……遺書を書け」
静かに死神のような声で告げられる残酷な言葉に、サンギョは顔を上げた。