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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第7章【嵐の夜に】
189/219

7-14

「……っ」


 思わず銃を取り落としたチョルスは、声にならない呻き声を上げて、床に膝から崩れ落ちた。

 ポタリ――と、赤い軌跡を描いて、チョルスの後を追うように零れ落ちた血が床を汚していく。


「……っくぅ」


 自分の血に滑りながら、それでも必死に落とした銃に手を伸ばすチョルスの目の前で、自由になったソンが素早くそれを拾い上げる。


「……せん……ぱい」


 ソンは一度だけチョルスを振り返ると、そのまま倉庫の奥へ向かって走り出した。


「……せんっ」


 追おうとするチョルスの腰に、スンミが泣きながら縋りつく。


「ダメッ! お願い……行かせて、見逃して……」

「……スンミさん……」


 痛みで朦朧とする意識の中では、非力な女性と言えど振り払うことは困難だった。


「チョルスヒョンッ!!」


 その時、倉庫の入り口から、ようやく駆けつけた応援部隊が雪崩れ込んできた。

 ミンホは誰よりも早く、貨物の影でスンミに拘束されているチョルスの姿を見つけると、飛ぶような速さで駆け寄ってきた。

 チョルスが血塗れなことに気付いたミンホは、泣きながらすがり付いているスンミの身体を慌てて引き離した。


「あなた、一体何をっ?!」


 後からミンホに追いついてきた警官が、すぐさまスンミの身柄を拘束する。


「チョルスヒョン……大丈夫ですか?」


 ミンホがチョルスの身体を起こそうと肩に手をかけたその時、突然倉庫の奥から激しく唸るエンジン音が鳴り響いた。

 カッと目を見開くように照らされたフロントライトの鋭い光に視界を奪われ、思わず駆けつけた警官たちが怯んだその隙に、解き放たれた猛獣のように、並んだ貨物をなぎ倒しながら、黒いファイアットウーノが倉庫の奥から飛び出して来た。


「危ないっ!」


 ミンホがチョルスを横抱きにして、凶暴な走路を描く車から寸でのところで身体をかわす。

 倉庫の中で警官に囲まれ銃弾を浴びる車は、彼らを轢き殺すのも厭わないという様子で、狂気めいた走行を続ける。


「……ミン……ホ」


 手負いのチョルスが、ミンホの腕を握る。

 ミンホは無言で頷くと、チョルスを安全な倉庫の隅に逃がしてから、腰の銃を取り立ち上がった。

 ボンネットから、何人目かになる警官を乱暴に振り落とした車は、猛スピードで倉庫の出口に向かっていく。

 先回りして走るミンホは、出口のシャッターの前で踵を返すと、向かって来る車に対して、真正面から銃を構えた。


 チュンッ――


 短い音に続けて、手元のリボルバーが反動で大きく揺れる。

 ミンホは構わず、二度三度と引き金を引いた。

 その度に、フロントガラスに小さな亀裂を走らせながら、それでも車は速度を緩めず、ミンホに向かって来た。

 ミンホが先に道を避けるか、車が軌跡を変えるためにハンドルを切るか、極限の意地の張り合いだったが、ミンホは怯まなかった。

 もうあと一歩で、跳ね飛ばされる――その寸前で、負けたのは車の方だった。


 ギュルギュルギュル――


 コンクリートの床を抉り、タイヤのゴムが焼ける嫌な匂いを撒き散らしながら、車がミンホの鼻先で右に避ける。


 その時、一瞬だけガラス越しに車中の様子が見えた。


 ミンホが放った弾丸の一つが、運転席でハンドルを握るソンの肩を抉っていた。ソンは目を血走らせて、血で汚れたハンドルにしがみついていた。

 そして、ソンの背後の席に目をやったミンホは、思わず手にしていた銃を取り落としそうになった。


 スローモーションのように、目の前をすり抜けていく車の窓に、ずっと探し続けていた人の顔が映る。

 ガラス越しにこちらを見ている彼の目も、確かにミンホの姿を捉えていた。

 丸い瞳が大きく見開かれ、窓を叩くように、小さな拳がガラスを打った。


 開いた唇から言葉が紡がれる前に、時間は元の早さを取り戻した。

 爆音に近い音を立てて、ミンホを避けた不規則な軌道のまま、車は倉庫のシャッターを突き破った。


「ナビヒョンッ!!」


 叫ぶミンホを嘲笑うかのように、黒い車は外で待機していた何台ものパトカーの包囲網を突破していく。

 ミンホの叫びの向こうで、ナビを乗せた車を追って行くパトカーのサイレンの音だけが、長く尾を引いて雨の漢江に響いた。





 グシャリ……


 靴の底に張り付いた、湿気を吸って壁から剥がれ腐りかけたポスターが、一歩踏み出す度に不快な音を立てる。

 コンクリートに擦り付けて取り除こうにも、両肩に預けられた二人分の体重が邪魔をして、思うように足を動かせない。


「……ここ?」


 左側の肩に下げた重みの方に声をかけると、荒い呼吸の中で「ああ」と短く返事があった。

 やっとの思いで短いステップを登り、割れたガラス戸を肩で押すと、埃塗れの室内に入っていく。

 何年か前まではコンビニエンスストアとして機能していたのであろうが、今は廃墟ビルの一角の空き店舗として、片付けられていない商品が灰色の遺跡のように残っているだけだった。

 ここまで堪えてきた体力にも限界が訪れ、ナビはかつてレジがあったと思われる場所の前に、二人を道連れに倒れこんだ。


「……っあ……はぁ……ああ」


 思い切り息を吸い込めば、堆積した埃まで一緒に吸い込んでしまい、ナビは苦しげに身体を折り曲げて咳き込んだ。

 ひとしきり肺の中の塵を吐き出し終えた時初めて、ナビは身体を起こして、両サイドに倒れこむ男たちを見下ろした。


「……あ……大丈夫?」


 右肩から血を流すドンファは、ほんの少し顔を上げると、顎をしゃくってサンウから先に介抱するようナビに促した。

 言われるまま、ナビはサンウの身体を起こし、商品の陳列棚に背中を預けさせて楽な体勢を取らせてやる。

 サンウは目を閉じていたが、呼吸は落ち着いていた。

 ナビは棚の上を漁り、包帯の箱を見つけると、歯でパッケージを引き裂いて中身を取り出した。


「……すぐ、止血するから」


 倒れているドンファの血に染まった上着を引き裂いて、その太い腕を無残に抉った傷口の上で、取り出した包帯をきつく縛り付ける。


「弾は抜けてるから、大丈夫だ」


 ドンファは痛みに顔をしかめながらも、そう言って笑う真似をした。


「……いい腕してるな。あの坊やは」


 ナビに腕を差し出しながら、ドンファが呟く。


「射撃は、チョルスより上だ」


 ナビは黙って止血を続ける。

 車の窓ガラス越しに見たミンホの顔が、銃で抉られた傷のようにナビの心の奥深い場所まで焼きついて離れない。

 銃声とサイレンの音で聞こえるはずはないのに、自分の名を叫ぶミンホの声が耳の中でずっとこだましている。


 ドンファが突然「うっ」と声をあげた。

 無意識の内に包帯を巻く手に力がこもり、強く巻きすぎていたようだ。


「……ゴメン、痛かった?」


 ドンファは苦笑しながら首を横に振った。


「信頼を裏切った当然の代償だ。こんな痛みじゃ、足りないくらいさ」


 そう――

 足りない代償。

 息子同然の後輩へ。

 最愛の妻と娘へ。


 だが、後悔などしない。



 ドンファは瞼を閉じたまま陳列棚に背中を預けるサンウの方へ、チラリと視線を移す。

 それからゆっくりと、目の前で傷の手当をしてくれているナビを見つめた。

 足りない代償を払うべき相手は、チョルスとスンミたちだけではない。


 知っていた。


 サンウが、年端もいかない子どもを犠牲にしていることも。

 それでも、サンウのために生きると決めていた。

 そこに後悔の余地などなかった。


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