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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第7章【嵐の夜に】
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7-12


 左手にエンピツを握り締めたまま、ナビは机代わりの木箱の上に突っ伏してスースーと寝息を立てている。

サンウはそっと身体を起こし、自分の肩に羽織っていた上着を脱いで、ナビにかけてやった。


「……風邪、引くぞ」


 眠るナビに届くはずもないことを承知の上で、サンウは囁く。

 横から覗き見たナビの寝顔は、驚くほどに幼い日のままだった。

 暗いバーの中で、いつもユジンの仕事が終わるのを待ちくたびれて眠ってしまう、幼い日のまま。

 あの時もこうして、品の欠片もない柄のシャツを脱いで、ナビにかけてやった。

 あの頃のままの自分でいられたら。

 お前をこうして苦しめることも、俺自身が人の道から外れて生きることもなかったのだろうか。

 グスンッと鼻を啜る音に目を向けると、ナビの頬を小さな涙の粒がツーッと零れていった。


「……ごめん、な」


 癖のないナビの黒髪に、クシャリと手を入れる。


「何を詫びてる?」


 その時、いつの間にか外から戻っていたドンファが背後から声をかけた。

 サンウは振り返らずに、ナビの寝顔を見つめたまま言った。


「こいつは、俺なんだ。だから……離せない」

「お前は、自分自身を抱いてたってわけか? 究極のナルシストだな」

「容赦ないな」


 身も蓋もない物言いに、サンウは抗議するよりも先になぜか笑いが込み上げて来た。


「本当のことだろう? なら、自分自身に詫びる必要があるか?」


 酷く残酷でいながら、迷いのない口調でそう告げるドンファを、サンウの方が戸惑いがちに振り返る。


「お前にもか? 大切な家族を捨てさせた……後戻り出来ないくらい、手を汚させ……」


 言い終わる前に、ドンファの太い指が、シッと言う様にサンウの唇の前に突き出された。


「その坊やがお前自身なら、俺はお前の影だ。影に詫びる人間がいるか?」


 一切の迷いのないその目に、サンウは何も言えなくなる。

 しばらく諭すように無言で見つめながら、サンウの口からもうそれ以上の言葉が紡がれないことを確認すると、ドンファはようやく唇から指を離した。


「……ドンファ」

「シッ!!」


 鋭く、今度は自分の唇の前で指を突き立てる。

 静寂に包まれた倉庫の中で、遠くの方から微かに響くサイレンの音が聞こえて来た。


「……そろそろ足が着く頃だ。逃げるぞ」


 そう言うとドンファは立ち上がり、すばやく荷物をまとめにかかる。

 もう荷づくりをするだけの体力も残っていない自分は、マットレスの上にただ半身を起こすのがやっとで、ドンファの様子を見守るしか術はない。

 無駄のない動きで荷物をまとめていくドンファを見つめながら、サンウは先ほどのドンファの言葉を思い出す。


 影に詫びる人間がいるか?――


 そう、だから、俺はあの男に詫びの言葉を求めもようとも思わないのだ。

 およそ肉親の情など、かけてもらった覚えなどないというのに。

 ただ一度、たとえそれが、彼が言うように、サンウのためではなかったのだとしても。ただ彼自身が、解放されたいと願った末に起こしたことだとしても。

 それでもただ一度、あの男が、自分のせいで、最愛の母親を手にかけたというその事実が、サンウにあの男の影として生きる道を選ばせるには、十分な理由だった。

 十分すぎる、理由だった。

 兄の影として生きて来た自分が、今度は自分の影として生きる男を作りだしてしまった。

 そして、自分のせいで、最愛の者に手をかけさせたという負い目を感じている、かつての自分そっくりなナビを、その負い目を利用して縛り付けている。


「おい、どうした?」


 半身を起したままの姿勢で先ほどから動かないサンウに、ドンファが荷物をまとめる手を止めた。


「……何でもないよ」


 そう言うと、サンウはドンファに背を向けて横になり、静かに目を閉じた。





「今日から捜査課に配属になりました。チャン・チョルス警査ですっ!」


 思わず声が上擦るのを自覚しながら、チョルスはかかとを合わせて敬礼のポーズをとった。

 配属初日、強面の先輩たちが居並ぶ捜査課の前で、たった一人の新人であるチョルスは、鋭い視線に晒されながら息を詰める。

 中でも最強の強面、まるで岩石のようなゴツい顔をした男が一歩踏み出し、チョルスの前に立った。長身のチョルスを見上げるその豆タンクのような身体は、チョルスの肩の高さ位までしかないが、ねめつけるように見上げてくる眼光は、それだけで一つの凶器になりそうだった。


「……名前」

「はい?」


 思わず聞き返したチョルスの腹に、固い拳が沈んだ。


「……ぅぐっ」


 不意打ちの攻撃に思わず蹲りそうになったチョルスの身体を、男はガッシリした腕で支えて、それを許さなかった。


「デカイ図体して、蚊の無くような声出しやがって。もっと、腹から声出せっ!」


 言うと同時にもう一発、鳩尾みぞおち目掛けて拳が飛んでくる。今度は間一髪、チョルスは腹筋を締めて、襲い来る攻撃に耐えた。


「反射神経はいいな」


 陽に焼けた厳しい顔が、ほんの少し緩む。

 それが、チョルスとソン・ドンファの初めての出会いだった。



「先輩っ! 先輩、出てきましたよっ!」

 週刊誌を頭から被って、覆面パトカーの助手席に沈んだソンを叩いて、チョルスは張り込んでいたマンションのエントランスから出てきた男女を指差した。


「すぐ追いましょう!」


 慌ててエンジンをかけようとするチョルスの手を制して、ソンは雑誌の合間から退屈そうにマンションの方を見た。


「バカが。ダミーに引っかかりやがって」

「ダミー?」

「しばらく待ってろ。すぐ本物が現れる」


 ソンは起き上がることもせず、再び雑誌を頭から被った。

 仲間を殺して逃げたヤクザの若頭が囲っている愛人のマンションを張り込んで、今日で丸三日になる。

 なかなか姿を現さず痺れを切らしていたチョルスは、すぐにでも追いかけてしょっ引きたいところだったが、当のソンが動かないなら一人で追いかけるわけにも行かない。焦れるような気持ちで再び運転席に腰掛け直した丁度その時、野球帽を目深に被ったもう一組の男女が、人目を避けるように小走りでエントランスから出てきた。


「……あ、あれ」

「言ったとおりだろ?」


 いつの間にか助手席から身体を起こしていたソンが、フロントガラス越しに対象者に向けて鋭い視線を走らせる。


「先に出たのは、組の若いヤツ。俺たちに張られてること感づいてやがったのさ。ヤクザのクセに、肝っ玉の小さい野郎だ」


 ソンは雑誌を投げ捨てると、チョルスに鋭く命じた。


「追え」

「はいっ!」


 再びエンジンキーを回すチョルスの横で、ソンはモゾモゾと腰を蠢かしながらボヤいた。


「三日も動かなかったら、痔になっちまう」

 

 配属以来コンビを組んでから、数え切れないくらい多くの事件を、二人で追ってきた。

 一度張り込みともなれば、二日も三日も自宅に帰れないことは当たり前。

 夏の焼け付く日差しの下でも、冬の凍える空の下でも、お構いなしに二人で犯人の背中を追った。

 風呂にも入れず汗まみれになった身体を寄せ合い、張り込みで食料が尽きれば一つのアンパンも二人で分け合った。

 犯人を取り逃がし、目から火を噴くほど固い拳骨を頭上に落とされ、こっぴどく叱られたこともある。「厳しさは愛情の裏返し」とクムジャに慰められながらも、人知れず屋上で泣いたこともある。

 それでも、チョルスにとってソン・ドンファは、唯一の相棒であり、人生の先輩であり、心の師だった。

 酒にめっぽう強いこの男は、それまでザルだと自負していたチョルスを遥かに凌ぐ酒豪でもあった。

 何日も続いた捜査が終わった時は、決まってソンの気に入りの屋台に連れて行かれては、必ず先に潰れるのはチョルスの方だった。


「まったく、仕方ねぇな」


 そう言いながら、ソンはその肉厚の背中に、自分よりも長身のチョルスを背負って、チョルスの長い足をズルズルと引きずりながら、夜の街を歩いた。

 迷い無く進んでいくその足取りに、背中のチョルスがいつだったか声をかけたことがあった。


「……先輩って、この辺りの出身なんですか?」


 ソウルの中でも治安の悪さで知られる長安洞には、社会からはみ出してしまった者たちが、路地の闇と闇の隙間にその身を隠すように無気力に蹲って、虚ろな瞳に街の明かりを映していた。


「ああ、肥え溜め出身だ」


 ソンは吐き捨てるように笑った。


「ここは、天国でのうのうと暮らす天使様が落としていったクソが、のたうち回る世界だ。だが、クソにもクソなりの生き方があるのさ。戸籍もない、そこに存在していることさえ、否定され続けてきたようなクソでもな」


 ソンはチョルスを背負ったままポケットに手をやり、手に掴めるだけのコインを取り出すと、暗い路地に向かって投げた。

 乾いた金属音を立てて転がるそれに、先ほどまで無気力な目で座り込んでいた男たちが、我に返ったように群がった。


「……先輩は、なぜ刑事に?」


 酒に酔って浮ついた頭で、何となく甘えたくなったチョルスは、少し踏み込んで問いかけてみた。


「さあな。クソの救世主にでもなりたかったのかもな」


 自嘲気味にそう呟くソンの表情は見えなかったが、身体を預けたソンの背中は温かく、心地良かった。



「……ッス! チョルスッ!!」


 助手席に座るオーサーに肩を揺さぶられ、チョルスはハッと我に返った。


「無線、さっきから鳴ってる」


 ハンドルを握ったまま物思いに耽っていたことに気付いたチョルスは、バツの悪い思いで、先ほどからジージーと焦れたように声を上げる無線機に手を伸ばした。

 スイッチを入れた途端、嵐のように乱れた電波の向こうから、途切れ途切れに仲間の刑事の声が聞こえて来た。


『……漢江……貨物倉庫……車両……発見』

『チョルスヒョンッ!!』


 電波の中に、聞きなれた声が割って入った。


「ミンホか?!」


 チョルスも素早く反応する。


「お前も聞いたな?」

『……はい』

「向かうぞ。急げっ!!」


 チョルスが叫ぶと同時に、グンッとスピードを上げた車の中で、オーサーは助手席に背中を押し付けられた。




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