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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第7章【嵐の夜に】
186/219

7-11


 温室の中で時を止めた、白い髪の少女。

 パク家に引き取られた後のサンウの唯一の心の支えであり、聖域でもあった場所から主が消えて、二ヶ月が経っていた。

 サンウはもう彼女の膝に甘えるような年ではなく、若木のように細いのに、上の方向にばかり伸びた背は既に180センチをゆうに超えていた。

 だが高校に通うようになっても、相変わらずサンウはヨンチョルの目を盗んであの温室に通っていた。


 ヨンチョルの母、ミシク――


 死んだ母によく似た女。

 目を閉じて眠りにつく度に、あんなに愛した母の面影が遠い霧の彼方に消えていってしまいそうで、自分の記憶の海に抗うようにサンウはミシクを求めていた。

 ミシクは事実、いつも夢の中の人物のように儚く、それがますますサンウに彼女を求めさせた。


 温室の中で、一人倒れていたミシクはすぐさま夫のコネで警察病院へ運ばれ、そのまま帰らなかった。

 処方されていた精神安定剤を人知れず大量に溜め込み、一度に服用したことによるショック症状が彼女が倒れた原因だった。

 ミシクの元へ行くのは、例によってヨンチョルに固く禁じられていたが、静止されればされるほど、恋しい気持ちは募っていく。


 サンウはある日曜の朝、そっとミシクが入院する警察病院へと向かった。

 警察幹部の関係者しか入れないVIPルームとも言うべき豪勢な個室を宛がわれながら、ドアの向こうのミシクは、青白く細い身体にいくつもの管を通された姿勢のまま、一人ぼっちで横たわっていた。


 ドアの隙間から覗いたその姿に、サンウは胸が苦しくなった。


 駆けつけた病院の白いベッドの上で、たった一人で息を引き取っていた、あの日の母の思い出がだぶる。

 粗末な市立病院の集合部屋と、ホテルの一室かと見まごうばかりの主賓室の違いはあれど、この姿がよく似た女二人は、同じだけの孤独を纏って横たわっていた。


 カラカラカラ……


 静かに戸を引きながら、サンウは病室の中に一歩足を踏み入れる。

 ベッドの上のミシクが目覚める気配はない。

 一歩一歩、恐る恐る近づいていきながら、サンウは遂にベッドサイドに辿り着いた。


「……ミシクさん」


 静かに声をかけた瞬間、ミシクの瞼が震え、ユラリと揺れる瞳がサンウを捉えた。


「気がついたの?」


 驚いて覗き込むサンウの顔が、トロリとした視線を巡らす漆黒の瞳の中に滲む。

 サンウが伸ばしかけた腕を、不意に白魚のような手がうねり、捉えた。


「ミシクさん?!」


 ヒンヤリとした指に絡め取られ、思わず身を引こうとしたサンウの腕に、白い指は更に粘度を増したようにより深く絡みついた。


「……ヨンチョル……私の……可愛い、ヨンチョル」


 うわ言のように、白い髪の少女が囁く。


 これは、誰だ?


 明らかに正気ではない目がうっとりと濡れ、血のように赤い唇を口角いっぱいに引き上げて、女は微笑んだ。


「……っ!」


 理屈ではない、本能が感じる恐怖に駆られ、サンウが逃げ出そうとした時には、既に遅かった。

 ミシクは細い身体のどこにそんな力が残っていたのかと思う程の狂気めいた力で、ベッドの中にサンウの身体を引き込み、その上に自分の身体を重ねた。


「……ミ……シク……さん?」


 ジリジリと、蛇のように身体をくねらせながら徐々にサンウの身体を上に上にと登ってくるミシクに、サンウはもはや恐怖のあまり声も出なかった。

 息を止めたサンウの唇に、蛇の舌を隠したミシクが唇を寄せた。


「……ッヒッ!!」


 サンウが息を詰めたのと、ミシクの生き物のような舌がヌルリと入り込んできたのは、ほぼ同時だった。

 悪友たちとつるんで、隣りの女子高の適当な相手を捕まえてキスの真似事くらい経験はあったが、まるで内臓を抉られるような、身体を侵食されるようなこんなキスは初めてだった。

 口内をくまなく犯され、されるがまま、閉じることを忘れた唇の端からはだらしなく唾液が零れ、シーツを汚した。


「……っん……ぅぅんっ」


 抵抗も出来ず必死に足りない酸素を求めて喘ぐサンウの喉元に、ミスクの白い指が絡みつく。急所である喉仏を強く推されて、サンウは目を見開いた。


 殺される――


 瞬時にそんな言葉が、サンウの脳内で点滅する。


「一緒に……可愛い、ヨンチョル……オンマと一緒に……」


 うわ言のように繰り返すミシクの下で、サンウは徐々にその意識を手放し始めていた。視界が真っ白な閃光で覆われ、その向こうから、まるで恋人に囁きかけるようなミシクの吐息交じりの声が聞こえてくる。

その時突然、身体の上からミシクの生暖かい体温が消えた。

 次の瞬間、ギャンッという悲鳴とともに、ベッドの真鍮に頭をぶつける鈍い音が響き渡った。


「に、兄さんっ!!」


 ベッドの上で跳ね起きたサンウの前には、ミシクの後ろ襟首を掴んだヨンチョルの姿があった。


「兄さんっ、あ……やめてっ!!」


 ヨンチョルはミシクの襟首を掴んだまま、そのままミシクの白い頭を、うつ伏せのまま枕に押し付けた。

 息の出来ないミシクは、くぐもった低いうなり声をあげて抵抗する。


「やめてっ!! 死んじゃうよっ!!」


 腕にすがって止めるサンウを振り払い、ヨンチョルは目を血走らせて、尚も渾身の力でミシクの頭を押さえ続ける。

 やがてミシクの抵抗が止み、そのままグッタリと動かなくなった。


「……兄さん」


 跳ね飛ばされた衝撃で床に尻餅をついていたサンウが身体を起こした目の前で、ヨンチョルはミシクの身体に繋がれていた無数の管を乱暴に引き抜いた。


「何するのっ?!」


 驚いて再びヨンチョルの腕に縋るサンウを、ヨンチョルは思い切り突き飛ばした。

 壁に強か背中をぶつけ、呼吸が止まる。

 命を送り込む先を見失った生命維持装置たちが、ピーピーと不快な電子音をたてながら騒ぎ始めた。


「……っに……さんっ!」


 切れ切れの呼吸の間から、霞んだ目でヨンチョルを見上げる。

 歪んだ視界の向こうで、ヨンチョルの顔が近づいてくる。


「……勘違い、するな」


 自分の視界が揺れているせいか、ヨンチョルの深い闇の色をした瞳も濡れて震えているように見える。


「お前を助けたワケじゃない」


 吐き捨てるようにそう言うと、ヨンチョルはいきなりサンウの唇を自分のそれで塞いだ。


「……っ!!」


 目を見開いたサンウの顎を掴み、ヨンチョルは乱暴にその口内を貪った。


「……っ……はぁっ」


 ようやく離された唇から、奪われていた空気を取り戻すように、サンウは大きく胸を上下させた。


「……何っ……をっ」

「気持ち悪いか?」


 ヨンチョルの胸を掴むサンウに、ヨンチョルは冷たい声で言った。


「俺は、ずっとこうされてきた……実の母親に。この女は、とっくに狂ってるんだよっ! 父さんが、お前の母親に……母さんの実の妹に……お前を産ませたあの時からっ!!」


 ヨンチョルはサンウの胸倉を掴み、そのままギリギリと締め上げた。


「……兄……さん」


 脳が足りない酸素を求めて、目の前にチカチカと白い光が走り出す。

 薄れ行く意識の中で、ミシクの命を繋いでいた無数の機械のか細い悲鳴が聞こえて来た。

 至近距離で見つめる黒い瞳は、やはり濡れたような光を宿して暗く揺れていた。

 ああ、兄さんも泣いているんだ。

 そう気付くと同時に、サンウは意識を手放していた。




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