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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第7章【嵐の夜に】
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7-10


「そこからの転落は早かったなぁ。まるで、漫画みたいだったよ」


 人事のようにそう言って、オーサーは笑った。


「裏街道でしばらくヤケクソな生活を送って、それにも飽きてきて。結局生きてオマンマ食べるためには働かなきゃってことで、モグリの医者家業をやり始めた頃、ジェビンに再会して、ナビに出逢った――それから、今日の、天才闇医者オーサー・リー先生に至るってわけ」


 冗談めかして笑いながら、少しだらしなく見えるほどの柔和な笑みを浮かべる彼は、とても今語られたような過去を持つ男には見えなかった。


「何で、今まで黙ってた?!」


 一人で余裕ぶっているようなオーサーに腹が立ち、チョルスは思わず声を荒げた。


「言ってどうなる? 先生を刺殺したチンピラが、ナビの義父だって知ったのは、ナビに出逢って何年も経った後だったんだよ。それに、先生は死んで、証拠は揉み消されて、俺は医者じゃなくなって、声を奪うほどナビを苦しめた男は塀の中だ。今更どうしようもないし、どうする気もなかった」

「それでもっ……」


 どうにも押さえきれない苛立ちをぶつけてくるチョルスを、オーサーは初めてその顔から笑みを消して、正面から見つめ返した。


「あんた、俺が大学を追われた原因が、この国に馴染めず、犯罪まがいなことにまで手を染めたからって、言ってたよね? あんたと俺は、その二年前、ジェビンの事件の時に出逢ってる。あんたは、あの時の俺を見てそう思ったの? それとも、誰かが『語る』俺の話を鵜呑みにして?」


 その言葉で、チョルスはハッと息を呑んだ。


 チョルスがジェビンとオーサーに出逢ったのは、彼の言うとおり、ジェビンがKATSUSAに所属していた時、米兵のアドルフ・ヒルトマンに暴行されたあの事件が最初だった。


 当時から、全く体温を感じさせないジェビンの冷たい美貌と、オーサーの人を食ったような態度は変わらなかった。確かにあの時、巻き込まれた凶悪な事件に引きずられ死んだような眼をしたジェビンが、自らも犯罪者になり下がるのではないかという不安はあった。だが、彼の親友で事件の第一発見者だというオーサーは、本気でジェビンのことを案じているのが分かったし、食えない奴だとしても、あらゆる面で『さとい』という印象をチョルスに与えていた彼は、自分の欲のためだけに、平気で犯罪をおかすような人間には見えなかった。


 自分が、オーサーを油断ならぬ相手として警戒し始めたきっかけ、それは――


当時、明慶大の捜査にあたっていたソンは、直接捜査に関わっていない相棒のチョルスにも、オーサーのことを耳打ちしていた。


お前は、二年前の事件であいつと面識があるらしいな――

柔和な笑顔に騙されるな。

奴は、あんなナリをしていても、米国人ヤンキーだ。

自分を受け入れてくれないこの国にも、自分を追い払った大学や世間にも、強い復讐心を抱いている。


「どこかの優秀なシナリオライターのお陰で、俺は永遠に母親と弟をこの国に呼び寄せることは出来なくなった。彼らは今も、俺がこの国で優秀な医者として働いていると思ってるからね。それだけの金を送りもしているし、アメリカに帰った時は、羽振りのいい振りもしてる。だけど、フリだけだ。彼らに俺の本当の姿なんて見せられない。とくに、ジョセフ――俺に憧れ、俺を慕って、立ち直った弟には。実の家族に、俺は一生離れたところで暮らしながら、嘘をつき通していくんだ」


 自嘲気味にそう笑いながら、オーサーはチョルスから目を逸らす。


「まぁ、あんたにこんなこと言ったところで始まらないけど。あんたはただ、敬愛してやまない先輩の言葉を信じただけだ」


 チョルスはますます混乱を極めてきた頭で必死に考える。

 ソンはなぜ、あんなことを自分に吹き込んだ?

 最初から、チョルスとオーサーやジェビンを近づけないために?


 考えてみれば、おかしなことが多かった。


 ソンは、チョルスがジェビンに同情的だったことを知っていた。

ジェビンが失踪してから何年か後、彼らは偶然他の事件で再会を果たすことになる。

その事件とは、薬の密売人が、ヤクザからの足抜けに失敗して追われる中で、組織の情報を持つその男を警察も同じように追っていた時、突き止めた男の逃走先が『ペニー・レイン』であったというものだった。そこでチョルスは、事件以来のジェビンとオーサーに再会し、ジェビンの“弟”と名乗るナビにも初めて出逢う。


 またキナ臭い犯罪に加担しているようで、疑う気持ちの反面、すっかり生気を取り戻したジェビンの顔を見て、安心したことも覚えている。


 結局その事件は、『ペニー・レイン』が直接関わっていたわけではなく、ただ偶然、雨の日に開店していた店に、命からがら逃げ込んできた男を匿ってやっただけだということが分かり、男の身柄も素直に警察に引き渡したので、彼らが咎められることはなかった。

彼らとの再会で、知らずに顔が綻んでいたチョルスを見て、帰りのパトカーの中でソンは冷たい目をして言った。


 あいつらを、信用するな。

 お前は、他人を信じすぎる――と。


(あんたはただ、敬愛してやまない先輩の言葉を信じただけだ)


 先ほどの、オーサーの声がチョルスの混乱した頭に拍車をかける。


 信じすぎる――と、ソンは言った。

 本当に、信じてはならないのは、どちらだったのか。


 そして、そうまでして、チョルスと『ペニー・レイン』の面々を引き離し、明慶大の一件が明るみになることを拒もうとした理由は?


 考えれば考えるほど、答えは霧の中に逃げていくようだった。

 何を信じればいいのか分からず、チョルスは答えを求めるように、濡れたアスファルトを蹴りながら車の速度を上げた。





 闇の中で、手元に置いた懐中電灯の明かりだけをたよりに、ナビは一心にエンピツを走らせる。

 よく読みこんだ跡のある、ボロボロの本のページを肘で押さえ、一言一句違わぬように、その言葉を書き取っていく。


『ラングストン・ヒューズ詩集 驚異の野原』


 背表紙にそう刻まれた本のページの下には、エンピツで薄く番号が振られている。

 ナビが今開いているページには、「1番」と刻まれていた。

 本と同じ文言を書き写していくうちに、それを読んでくれた人の声が蘇る。

 エンピツが紙の上を走る乾いた音の合間から囁く、自分よりも低い声と、背後に流れる雨の音。

 ついこの前のことなのに、それはまるで遠い記憶を掘り出すような切なさに満ちた作業だった。

 それでもナビは手を休めることなく、書き続けた。

 エンピツを動かしている間だけは、あの声が絶えず消えずに耳元で囁いてくれているような気がしていた。

 まどろみの中に、心地よく落ちてきたあの声が。

 ページにこっそりと刻まれた番号は、ナビがねだって、彼があの日渋々ながら図書館の中で読んでくれた詩の順番だった。

 眠りに落ちるまで、彼が律儀に読み続けてくれた詩の順番だった。


「……ハヌル」


 不意に呼びかけられ、紙の上を走っていたナビの手が止まる。

 振り返れば、マットレスの上に身体を横たえたサンウがナビを見上げていた。


「何で来た?」


 サンウはナビの手元に広げてある詩集に目をやりながら、静かに尋ねた。

 モルヒネが効いているのか、今日は呼吸も穏やかだった。


「……僕の、本当の人生を生きるため」

「本当の人生?」


 エンピツを置いたナビは、改めてサンウに向き直る。


「僕は本当は、あの時死んでるはずだったでしょ?」


 それがいつのことを指すのか、二人にだけは分かっている。

 二人の胸の中だけに、隠し続けてきた『あの時』のことを。


「あれからの9年間は、僕には偶然の、嘘みたいなおまけの人生だった。出来すぎてて、幸せで、ずっとどこかで怖くて堪らなかった」


 いつか、終わってしまうんじゃないか。

 そんな恐怖は、実際に終わってしまえば過去のものに変わる。

 そんな日が永遠に来ないことを望みながら、早く来てほしいとも思っていた。

 心の中にはいつも、哀しい覚悟が出来ていた。


「だけど……偶然の、嘘みたいな人生にも、お別れはしたいんだ。ちゃんと、お別れを、したいんだ……」

「それが、別れの儀式か?」


 サンウは懐中電灯の光に浮き上がる、まだ表紙が開かれたままの詩集を指差す。ナビはそれには何も答えず、再びサンウに背を向けてエンピツを握り締めた。


 偶然の、嘘みたいなおまけの人生――

 それなら、俺も同じこと。


 サンウは薄明かりの中でナビの丸めた背中を見つめながら、ずっと心の奥にしまい込んできた『あの時』の記憶を辿っていた。




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