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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第7章【嵐の夜に】
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7-8


神のようにあがめられ、腐るほど金が転がり込んでくる。


外から見ていたこの国の大学病院の「お医者様」のイメージと言えば、そんなところだった。

派閥争いを生き抜く運と人脈さえ掴めれば、こんなに楽をして稼げる商売はないと思っていた。

だが、自分が実際にインターンになり、いざ病院の中に身を置くと、そんなものは幻想にすぎないと思い知るのに、時間はかからなかった。


インターンは、人間ではなかった。

昼も夜もなく、寝る間も惜しんでオペに立会い、教授の研究を手伝い、手強い年増のナースに馬鹿にされながら夜勤にもつく。

一日三時間、睡眠時間があればいい方だった。


頭は常に朦朧とし、辛い思いはアメリカと兵役で経験し尽くしてきたと思っていた自分でさえ、何度もくじけそうになった。

帰る場所がないお陰で、何とか首の皮一枚のところでギリギリ繋ぎ留められていただけだった。

 そんな日々を送っていたオーサーの元に、ある日全ての事の発端となったあの死体が運ばれてきた。


 一目見たその時から、調べるまでもなく、粗悪な合成麻薬の乱用によるショック症状が死因であることは明らかだった。その証拠に、運ばれてきた遺体の腕には、おびただしい数の注射針の痕が残り、皮膚を変色させていた。


「洗浄しといてくれ」


 まるで「洗濯しといてくれ」とでも言うように、その当時オーサーが配属されていた外科病棟の医師は言った。


 儒教の国韓国らしく、年功序列を盾に、インターンを自分専属の奴隷か何かと勘違いしているその医師がオーサーは心底好きになれなかったが、人間らしい感情を排除して仕えるにはピッタリの相手でもあり、『師弟』ではなく『隷従』に徹することができる関係は、ある意味煩わしさがなく、オーサーにとっては気が楽な相手でもあった。


だが、『隷従』にも限度というものがある。

あまりにも軽い口調で命じられた大それた指示に、いつの間にか逆らうことを忘れてただ流されるように仕事をこなして来たオーサーでさえも、唖然として医師を見返さずにはいられなかった。


「聞こえなかったか?」


 医師は不機嫌そうに眉を寄せ、固まるオーサーを忌々しげに見返した。


「終わったら、コールドスリープ。やり方は、分かるよな?」

「それじゃあ、死亡推定時間が変わって……」

「つべこべ言わずに、やればいいんだよっ!」


 外科医は無残な遺体が乗ったストレッチャーを、腹立ち紛れに蹴り飛ばした。ガタガタとされるがままに台の上で揺れる、ほとんど全裸に近い女が哀れで、オーサーは躊躇いなく死者を冒涜する行為を行う医師を思わず睨み返した。


「何だよ、その目は? やりたかったんだろ? お前にしかできない仕事」


 医師は息がかかるほどオーサーに顔を寄せて、下卑た笑みを浮かべながら囁いた。


「聞いてたよ。お前がシヌ先輩にボヤいてるのをな。高尚なお前さんは、ずっと下品な俺の元での仕事に嫌気が差してたんだろう? 記念すべき独り立ちの初仕事だ。喜んで引き受けたらどうだ?」


 オーサーの白衣の襟元を締め上げながら、医師は更に顔を寄せる。


「……犯罪に、手を貸す気はありません」


 オーサーの言葉に、外科医はハッと息を吐いて笑った。


「犯罪だと? 人聞きの悪いこと言うんじゃないよ。これは業務命令だ。先輩の指示は絶対だ。これだから、アメリカかぶれは嫌なんだよ」

「今回の仕事は、先輩の個人的な指示ですか? それとも、大学の?」


 オーサーがそう言った途端、医師の目からスッと冷たく温度が失せた。


「オーサー・リー――。覚えておくんだな。出来の良すぎるオツムは助けにもなるが、時として人を窮地に陥れるものだぜ」


 医師はオーサーのコメカミを人差し指でトントンと弾くと、最後は威嚇するように、握った拳でドンッと胸を突いた。


「アメリカに置いてきたお袋さんと弟は、今どんな暮らしをしてるんだ? お袋さんは米軍相手に水商売、弟は優秀なお前と違って落ちこぼれて荒れてるらしいじゃないか。知ってるんだよ、それくらい。可愛い後輩インターンは、俺の家族同然だからな」


 そう言いながら嫌らしい笑みを浮かべる医師に、オーサーは確信した。この男は、自分の粗暴さが、いつかインターンたちからの反感を買い窮地に陥った時のために、予め、哀れなインターンたちの弱点を探り、その情報を手にしていたのだと。


「お前は、早くこっちに引き取りたいんだろう? 頼れる唯一の身内のお前が、いきなり無職になっちまったら、お袋さんたちの未来はどうなるかな?」

「……脅してるんですか?」


 ギリッと拳を握り締めたオーサーを見て、医師は満足そうに笑った。


「脅しじゃない。未来の話をしているだけだ。お前が選べる、未来の話をな。もちろん、タダでとは言ってない。お前の選択によっては、お前が考えていたよりも何倍も早く、お袋さんたちを呼び寄せることが出来るようになるぞ」


 反論できない痛いところを疲れて、オーサーは唇を噛み締めた。

 最近の母からの連絡で、生まれた時から大げさでなく、自分の命に代えても惜しくないと思えるただ一人の弟、ジョセフ・リーの近況を知らされたばかりだった。 


 目の色の違う、最愛の弟――。


 母が見知らぬ米兵との間に産んだ、泣き虫で、弱虫な弟。

 自分が去った後のアメリカでは、学校も休みがちになり、部屋に引きこもる日が格段に増えていた。

 このままではジョセフはダメになる。

 逃げるように背を向けた家族とアメリカとはいえ、本気で母や弟を見捨てられる筈もない。


「研究室へ行け。仲間が待ってる」

「仲間?」


 尋ね返すオーサーに、医師は小バカにするように笑った。


「一人でやれだなんて、いくら俺でもそんな無茶は言わないさ」


 だがそれが、オーサーを思ってのことではないことくらい、分からない彼ではなかった。

 立場の弱いインターンの中でも、特に弱みを持つ人間を集めて、誰か一人でも裏切ってこの事件隠匿を暴露する者がいたら、みんなまとめて地獄に落ちるぞ――どこの誰が用意したか知れないシナリオには、そう書かれているのだ。


 オーサーは移動した研究室で、哀れな女の変わり果てた姿を見下ろしながら、自分と同じように暗い目で、ただ『物』として女を見つめている顔馴染みのインターンたちを、一人ひとり盗み見た。


 だが、見知った筈のそれらの顔を、オーサーは誰一人認識できなかった。

 一言も言葉を発せず、黙々と女の身体から『事件』の痕跡を消していく作業に没頭している彼らは、自分も含めて顔の無い死神のようだとオーサーは思った。


 研究室の大型冷蔵庫の中にひとまず女を『保存』した状態で、オーサーたちの仕事は終わった。


 女が一体何者なのか、遺体はこれからどこへ運ばれるのか、どうなってしまうのか、それはオーサーたちが知る由もないことだった。


 作業が終わったオーサーたちは、一人ひとり医師の部屋に呼ばれ、サラリと一枚切られた、信じがたい額面の小切手を握らされ、自宅待機を言い渡された。

 それだけの金があれば、母と弟を今すぐにでも呼び寄せて、遊んで暮らさせてやることもできた。


 すぐにでもそうしたい気持ちを抑え、オーサーは引きこもったインターン寮で謹慎するような生活を送りながら、事件が流れていく方向を見守っていた。


 その後しばらくして、地方紙の夕刊に小さな記事が載った。

 目を凝らして見ないと、見逃してしまうほどの小さな記事だった。


『漢江河口から、女性の遺体――女性の身元は、明慶大学大学院法律専科在学、オ・イナ。警察では帰宅途中のイナさんが、誤って橋から転落したことによる事故死と――』


 女の名はそこで初めて知ったが、明らかにあの夜研究室で、オーサーたちが『加工』した、あの女に違いなかった。

 そして、どこの誰だか分からない者の思惑通り、女の死はただの事故死として処理されようとしている。


 もう一つ、オーサーたちが握り潰した、女に対する重要な事実があった。



 女は、妊娠していた。




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