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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第7章【嵐の夜に】
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7-5

 徐々に闇にも目が慣れてくると、倉庫の様子がぼんやりと浮かび上がってきた。

 搬送前の穀物を貯蔵しているのか、パンパンに中身を詰め込まれた麻袋がそこかしこに積み上げられ、乾いた草の香ばしい匂いが漂っていた。

 その麻袋の山の間に隠れるように、その蛍の光は漂っていた。

 ドンファが袋のいくつかを乱暴に脇にどけて、部屋のように囲まれた空間をあらわにする。

 そこに突如現れた光景に、ナビは思わずグッと息を詰まらせた。

 コンクリートの上に直に敷かれた、染みの浮いたマットレス。

 その上に横たわる、骨と皮ばかりになった、もはや生気の欠片も残っていない男。

 そのやせ細った身体の周りに無造作に散らかされた、おびただしい数の注射器の残骸たち。


「……っ!!」


 手で口を押さえていなければ、叫び出してしまいそうだった。

 とても正視できないのに、金縛りにあったように目を逸らせない。

 以前に会った時よりも、病状が加速度的に悪化しているのが手に取るように分かった。

 そんなナビを見上げたサンウは、それでも嬉しそうにマットレスの上で身体を起こそうとした。

 ドンファがごく自然に、その背中に太い手を添える。


「……今日は、ハヌルが来たから……すごく……調子が……いいんだ」


 途切れ途切れに紡がれるその声に、ナビの顎が意思とは無関係に震え出す。


「ああ、本当だ。顔色がいいな」


 サンウに合わせてドンファが言うと、ドス黒く変色した顔にも関らず、子どものように無邪気な笑みを見せた。笑うと覗く八重歯だけが、この男のかつての姿を残していた。


 もう限界だった。


 ナビは震える身体を止めることが出来ずに、崩れ落ちるようにコンクリートの床に膝をついた。

 ナビの小さな手では、身体の奥から競り上がる衝動を抑えることができず、手を離せばすぐにでも、意味のない咆哮を上げて止まらなくなりそうだった。

 出口を無くした叫びの代わりに、ナビの目からポロポロと大粒の涙が伝っていく。

 口を押さえる指の間を濡らし、手の甲を伝って、それはサンウのマットレスにポタリポタリと染みを作る。


「……おい? 泣くなよ」


 ナビの涙に気づいたサンウは、小首を傾げてナビを覗き込んだ。

 その仕草は彼の凄惨な容姿とはおよそ不釣合いで、ナビの涙はますます止まらなくなった。


「お前の泣き顔を見るために、呼んだんじゃない……笑ってくれよ、ハヌル……歌ってくれ……」


 干からびたサンウの腕がそっと伸びてきて、ナビの弾力のある頬に触れる。


「……あっ……ッウ……サンウッ……」


 とうとう我慢できなくなり、ナビは身体を折り曲げ、コンクリートの床に突っ伏すように額を擦り付けて、激しく嗚咽を漏らした。

 そんな二人の様子を、ドンファはただ黙って背後から見守っていた。

 


 ハンドルを持つチョルスは、先ほどから一言も口をきいていない。

 反対車線では既に検問が始まっていて、赤いテールランプが物々しい雰囲気を助長していた。


「……チョルスヒョン」


 気まずさに耐え切れなくなり、ミンホから声をかける。

 チョルスは答えず、代わりにハンドルを持つ手にギリッと力が加わった。


「ヒョン!」

「お前は、いつから知ってた?」


 目線は前方に向けたまま、鋭い声で一言、チョルスは言った。


「……ソン警査のことは、さっき初めて知りました」


 チョルスが急ハンドルを切りながら、初めてミンホの方を睨みつけた。


「ほ……本当ですっ! ノ警査と話をしたのも、つい最近のことなんですっ!」


 ギュルギュルギュル――と不快な音に続けて、タイヤが擦れて焼ける嫌な匂いを撒き散らしながら、チョルスの運転する車はガードレールに衝突するギリギリのところで急停止した。

 助手席で大きく身体を跳ねさせられたミンホは、車が停止しても尚衝撃に治まらない胸を押さえながら、非難を込めてチョルスに叫んだ。


「危ないじゃないですかっ!!」

「お前は、信じるのか? さっきのあの男の話」


 チョルスも逆に、そんなミンホに食ってかかるように身を乗り出す。

 それはつい先ほど、警察病院で起こった出来事を指していた。

 

「やめなさいよっ! チョルスッ、ダメだったらっ!」


 チョルスは腕にすがりついたクムジャをそのまま引きずるように、警察病院の中を足音も荒くズンズンと進んでいく。


「ミンホ君っ! あなたも止めてっ! ノ警査はまだ治療中……」


 クムジャは警察署から飛び出したチョルスを、慌てて追いかけてきたミンホを振り返り必死に助けを求めたが、チョルスはその隙にクムジャの腕を振りほどいて、堅く閉ざされた病室のドアに手をかける。


「チョルスッ!」


 クムジャの静止も虚しく、チョルスは病室のドアを力いっぱい開け放した。


「チョルスヒョンッ!」


 後ろから追いついたミンホも、チョルスの肩越しに病室の中を垣間見る。

 個室である部屋の真ん中にはベッドが一つ。

 その上に、血の滲んだ包帯を腹に巻いた、ノ・ヒチョルの痛々しい姿が乗っていた。


「……よう。やっと来たな。『狂犬』」


 ヒチョルは横たわったまま、目だけでチョルスを捉えると、薄く笑って見せた。

 チョルスはツカツカとヒチョルのベッドの脇まで近寄ると、膝を折り、ヒチョルの枕元に顔を近づけた。


「ソン先輩に撃たれたって?」

「……ああ。見ての通りだ」


 チョルスは今度は威嚇するように、ヒチョルを上から覗き込んだ。


「嘘だろう? 何か企んでるのか?」

「企んでるのは、あの男の方だ」


 チョルスは怪我人でなければ今すぐにでも殴りかかりたい衝動をグッと堪えて、ヒチョルを睨み続ける。

 だがヒチョルはそんなチョルスを無視して、今度はチョルスの背後にいるミンホに向かって声をかけた。


「……ハン警衛。あんたの大切な坊やは、恐らくソンと一緒だ」


 その言葉に、チョルスがミンホを振り返る。


「どういうことだ?」


 眉根を寄せ、チョルスは今度はミンホを睨みつける。


「……ソンの実家は、長安洞の大衆食堂だ。12歳の年まで、パク・サンウはソンの隣りの長屋に住んでいた。二人は、幼馴染だ」


 ヒチョルは相変わらずベッドの上で身動き取れない姿勢のまま、首だけ回してチョルスを見た。


「パク・サンウのいるところには、いつだってソンがいた。お前が知るよりずっと昔からな」


 俯くミンホとヒチョルの間で、チョルスは困惑しきった顔で視線を泳がせる


「……いい加減、現実を見るんだ。チャン・チョルス」


 ヒチョルの冷たく湿った声が、容赦なくチョルスに突き刺さる。

 認めたくない現実が、今チョルスの目の前に確かな形を持って現れ始めていた。


 チョルスは運転席に背中を預け、狭い車の天井を見上げて息を吐いた。

 あまりにも突然に、信じられないような事態が起こって、頭も心も着いていかない。


「……チョルスヒョン」


 先ほど勢いとは言え、危うく掴み合いにまで発展しかねなかった感情のぶつかり合いを整理するために、ミンホは努めて冷静に話しかけた。


「『ペニー・レイン』へ行きましょう。僕らが追いかけているものは、きっと一つに繋がっています」


 ミンホのその一言に、チョルスは無言で再びエンジン音を響かせた。



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