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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第7章【嵐の夜に】
177/219

7-2


 カウンターに突っ伏し、自らの頭を支える重みで痺れた腕が、自然に浅い眠りからジェビンを呼び覚ました。

 薄暗い店内を見回せば、昨晩遅くに閉店した時のまま、テーブルの上には酒の空き瓶やつまみの皿が放置され、雑然としていた。

 そんな事態に陥った理由はただ一つ。

スタッフの手が足りなかったから。

 いくら綺麗好きを自称している自分とは言え、いつもは二人がかりでする作業を、たった一人で、夜遅く店を閉めた後からやる気にはなれなかった。


(ナビヒョンを、お借りします)

(どいてください。あなたと言えども、今の僕は何をするか分からないですよ)


 寝起きの朦朧とした状態から徐々に覚醒してくると、昨日の夜のことが鮮明に思い出される。


 正直、驚きを隠せなかった。


 いつもチョルスの後ろにくっついていた、ハンサムだが頼りない『お坊ちゃん』だと思っていた。

 だが、ナビを求めて無理やり自分の手から奪い取って行った昨夜のミンホは、れっきとした『男』の顔をしていた。

 もしかしたら本当に、ナビを手放す時は近いのかもしれない。

 花嫁の父親の心境だなどと、オーサーにふざけて言ったことがあるが、それもあながち外れてはいない。

 ナビがあのミンホと幸せになれるのならそれが一番だが、どうしようもない寂しさは拭えなかった。


 その時、カウンターの隅に放置してあった携帯のバイブ音が鳴り響き、ジェビンは急に現実の世界に引き戻された。

 ブブブ……ブブブ……と文句を言う手のひらサイズの機械に手を伸ばし、液晶画面を覗き込む。

『ウリ ナビヤ(うちの ナビちゃん)』の文字が光っていた。


 ジェビンは慌てて、飛びつくように携帯を耳に当てた。


「もしもし、ナビッ!?」


 勢い込むあまり、思わず電話口で叫ぶような大声が出てしまう。


『……ジェビンさん?』


 しばしの沈黙の後、受話器を通して聞こえてきたのは、耳に馴染んだナビの声ではなかった。


「ミンホ……か?」


 なぜミンホがナビの携帯を? 疑問をぶつける前に、ミンホの方が先に口を開いた。


『ナビヒョンは、戻っていませんか?』

「え?」


 ジェビンは携帯を耳に当てなおして、ミンホの言葉を頭の中で復唱する。


「戻ってないけど……お前と、一緒じゃないのか?」


 ジェビンの問いに、なかなかミンホからの答えは返ってこなかった。


「おいっ!」


 焦れたジェビンが、沈黙に向かって声を荒げる。


『……ナビヒョンが、いなくなりました』


 ようやく返ってきたのは、振り絞るような苦しげな声だった。


「いなくなった?」


 言われている意味が分からず、ジェビンが問い返す。


『恐らく、あの男のところです』

「あの男?……」


 ただミンホの言葉をただオウム返しにしながら、ジェビンは初めてハッとした。


「あの男って、まさかっ!! どういうことだっ?! ミンホッ!!」

『今から、そちらに向かいます。詳しいことは、その時に』

「おいっ!!」


 ジェビンの問いかけ虚しく、電話はそこで絶ち切られた。


畜生シッバル!」


 ジェビンはもう応答しなくなった携帯を乱暴に閉じて、カウンターの上に投げ捨てた。

 親指の爪を噛みながら、額の髪をかきあげる。


(ジェビン兄貴ヒョン!――)


 薄暗い黒テントの中で、いつもカウンターで賑やかに皿洗いをしていたナビの姿が不意に蘇る。


「……ナビヤ……」


思わずそう呟いて、ジェビンはギュッと自分のTシャツの胸を掴んだ。



 濃い霧に覆われた漢江河口の貨物倉庫の前に、男は影のようにユラリと立っていた。

 霧にそよぐようにユラユラと身体を揺らしながら、じきに濃霧の向こうから現れるであろう人物を待つ。

 

カツーン――カツーン――

 

その時、アスファルトの上を擦る硬質な音が、男が目を凝らす霧の彼方から聞こえてきた。

 一歩一歩、その音は近づいてくる。

 やがて、霧の壁の一角が人の形に開けて、男が待ちわびた人物がついにその姿を現した。


「……よぅ、来たな」

「お前が、呼び出したんだろう?」

「そうさ。呼び出すまでに、何年もかかった」


 男は申し訳程度に頭頂部に生えた薄い髪を朝の冷たい風になぶられながら、目の前で、手にした杖に左半身の重心を預けているソン・ドンファを見据えて笑った。


「これでやっと、本懐を遂げられる」

「本当に粘着質な男だな。同期の中でも、お前だけはどうにも好きになれなかった」


 ドンファがはっきりそう告げると、男は嬉しそうにニヤリと笑って言った。


「お互い様だろ」

「ヒチョル……なぜそこまで俺にこだわる?」


 ジャリッ――と、杖が砂を噛む音が、二人の男の間で小さく弾ける。


「重要事件なら、他にいくらでもあるのに。そんなにヒマじゃないだろう?」


 尋ねられたノ・ヒチョルは、不気味な印象を与える笑みを引っ込めて、生真面目な口調で答えた。


「理由なんてない。だが、昔からお前を巡るこの一連の事件は、絶対に見過ごしちゃいけないと思っていた。刑事の感でな」

「刑事の『感』、ね」


 ドンファは鼻で笑ってみせる。


「刑事の『偽善』、の間違いじゃないのか?」


 一瞬、ヒチョルの目が鋭くドンファを捉えたが、張り詰めた空気はそのままに、辛辣な言葉を投げかけたドンファの方から、今度はヒチョルに問いかけた。


「お前は、どうして刑事になった?」


 静かなトーンの声に合わせて、戸惑いながらもヒチョルは答える。


「どうして、だと? 別に……性に合ってるからだ。お前だって、そうだろう? ご大層な理由なんかない」

「本当にそう思うのか?」


 杖をついたドンファは、呆れたように笑った。


「俺が刑事になった理由は、お前の方が良く知ってるんじゃないのか?」


 その言葉に、ヒチョルの目が冷たく光る。


「――ただ一人の男のために、か」


 ヒチョルの人差し指は真っ直ぐ、杖を持たない方のドンファの手を指差した。


「そのために、お前はどこまで手を汚す?」


 ドンファの手の中には、いつの間にか鈍色に輝く銃身が握られていた。


「手を汚す――か」


 それをゆっくりと、肩の高さに上げていく。


「知ってるか? ヒチョル。血の染みこんだこの手に、今更一滴や二滴加わったところで、何も変わりゃしないのさ」


 真っ直ぐにこちらを覗く、銀色に縁取られた丸い銃口の奥に広がる闇が、ヒチョルに向かってグワッと大きく広がった気がした。


 パーンッ!!


 乾いた音が、霧に沈む貨物倉庫の壁に跳ね返り、長く尾を引いてこだました。




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