7-1
あなたの傷に爪を立てて、僕を刻む。
「ごめんなさい、お仕事中に」
そわそわしながら喫茶店に入ってきたチョルスは、先に到着して窓際の席に腰掛けながら、チョルスの姿を見るなり立ち上がった美しい女に、ぎこちない会釈をしながら席に着いた。
「いえ、全然。あのぉ、呼び出す相手間違っていませんよね? ソン先輩じゃなくて、俺でいいんですか?」
「ええ」
女は笑って頷いた。
花柄のシフォンのワンピースの胸元が、店の空調の風に煽られヒラヒラと揺れている。
「……実は、チョルスさんに相談したいことがあって」
女はテーブルの上でほとんど氷の解けかけたアイスティに口をつける様子もなく、膝の上に置いたハンカチをギュッと握り締めてから口を開いた。
「……あの人のことなんですけど」
女が指している『あの人』とは、そろそろ四十の声を聞こうかというチョルスの先輩、『野獣』の愛称で知られるソウル市警の特攻隊長、ソン・ドンファのことだった。
彼女は、そんなソン・ドンファがソウル市警始まって以来の一大ミラクルと呼ばれながら手に入れた、十も年の離れた見目麗しい恋女房予定者――つまり、婚約者であった。
「先輩が、どうかしましたか?」
チョルスは毎日野獣のような男たちに囲まれ、手強い犯罪者ばかり追っているため、全く女慣れしていない自分の気まずさを隠すように、先ほどからむやみやたらに氷水の入ったコップを仰いでいる。
「……知っているなら、正直に教えて欲しいんだけど」
「はい?」
言いにくそうに口ごもりながら、やがて意を決したように女は言った。
「あの人、他に好きな人がいるんじゃないかしら」
その途端、チョルスは口に含んでいた水を勢いよく吐き出した。
噴水のように飛び出した水飛沫はチョルスの白いポロシャツの前面を濡らし、テーブルの脇に立てかけたあったメニュー表にまで被害が及んだ。
「あ、すみませんっ」
チョルスは恐縮しながら、女が差し出したおしぼりを手にとって、自分が盛大に噴き出した水を慌てて拭いた。
「でも、あまりにも有り得ない話だから」
テーブルを拭き終わると、チョルスは顔を上げて言った。
「先輩に付いてもう何年にもなりますけど、女の影なんか見たことないですよ。一体、どうしてそんなこと?」
チョルスが心底不可解だというような顔でそう問うと、女は困ったような笑みを浮かべて言った。
「そうね……その通りだと思う。だけど、あの人はいつも遠くを見てるようで……」
そう言って視線を逸らす女の表情は、婚約が決まった者が見せる幸せなものではなく、酷く寂しげだった。
「お願いだから、先輩をフラないでくださいね。あなたにフラれたら、先輩はきっと一生独身で過ごすしかなくなっちまう」
先輩思いの素直なチョルスの言葉に、女は静かに笑って頷いた。
「……アジョシ……アジョシィ」
幼い甘い声が耳元で囁く。
ガンガンと頭蓋骨を内側から金槌で叩かれているような強烈な頭痛に苛まれながら、チョルスは顔を埋めていたクッションから目を上げた。
「朝ですよー、アジョシィ」
チョルスと目が合うと、幼い少女はキャハッと口元に両手を持っていって笑った。
「あら?……起きた? チョルスさん」
キッチンからエプロンをかけた女が出てくると、少女はパタパタと音をさせて女の元に走っていった。
「……スンミさん……あれ……俺」
「昨日の夜遅く――ううん、今朝方ね。うちに来たのよ? 覚えてない?」
スンミは笑いながら、少女――チェリンに熱いおしぼりを持ってチョルスの元へ行くよう背中を押した。
「……ありがとう」
チェリンからおしぼりを受け取って顔に当てると、自分の吐き出す息の酒臭さに思わず顔をしかめる。
当直明けのところを無理やりクムジャに誘われ、ちょっとだけ付き合うつもりが丸一日飲む羽目になり、泥酔したままどこかへ向かったまでは覚えている。
それが、あろうことかソンの家だったとは。
見舞いに行くつもりが、却って自分が介抱されている。
しかも、朝方の非常識な時間に、リビングのソファーを占領して眠り込んでしまうなんて。
頭痛とは違ったところで、チョルスは思い切り頭を抱えた。
「本当にすみません、スンミさん」
「気にしないで。チョルスさんは家族みたいなものじゃない。ミソチゲ作ったんだけど、食べられるかしら?」
「スンミさんのミソチゲは別格です。例え腹下してたって、食いますよ」
チョルスの言葉にスンミは微笑んで、キッチンに消えた。
本当なら水一滴すら飲みたくないような酷い二日酔いだったが、いつも不思議とスンミの作ったミソチゲは食べられた。酒好きなソンと一緒に仕事明けに屋台で酔いつぶれては、ソンの家に来て倒れこみ、よくスンミの朝食にありついて帰っていた。
「あれ……ところで、先輩は?」
「……出かけたの」
グツグツ言う鍋の音の合間から、スンミの小さな声が聞こえてきた。
「こんな朝早く?」
「ええ。約束があるみたい」
スンミは鍋をかき混ぜながら、短くそう答えた。
(ちょっと、出てくる――)
先ほど別れたばかりの、夫の言葉を思い出す。
チョルスをソファーに沈めてから、ドンファはそう言って薄手のジャンパーを羽織った。
(こんな時間に、どこへ?)
(……古い友人に呼び出されてな。年寄りだから、朝が早いのさ)
ドンファはスンミの顔を見ないまま、そう笑って見せた。
(帰りは?)
(遅くなる)
(夕飯はうちで食べるでしょ? あなたの好きなミソチゲ作って待ってるわ)
(何時になるか分からないから、先に寝てろ)
(……待ってる)
振り向いたドンファは、何も言わなかった。
何も言わず、ただスンミの頬に手をやりそっと撫でると、そのままジャンパーの裾を翻し朝靄の中を出て行った。
「おかわりもあるから、沢山食べてね」
スンミはよく来るチョルスのために常備してある、チョルス用の器に湯気を立てるチゲを大盛りにして、彼の前に置いた。
チョルスの隣りでは、チェリンがちょこんと、小さなお椀とスプーンを手に座っている。
「いっただっきまーすっ!」
チョルスとチェリンの声が重なる。
「はい、召し上がれ」
スンミは二人の対面に座って微笑みながら、ぼんやりと二人が舌鼓を打つ様子を眺めていた。
「スンミさん、覚えてますか?」
チェリンと競うようにスプーンを進めていたチョルスが、顎の端にご飯粒をつけたままスンミに声をかける。
「え?」
「先輩と婚約してた頃、先輩に好きな人がいるんじゃないかって。俺に相談したことがあるでしょう?」
「……よく、覚えているのね」
スンミは苦笑しながら、チョルスにご飯粒のついている箇所を指で示して教えてやる。
「さっき、その時の夢を見てました。その時も俺、有り得ないって答えましたよね。こんな上手いミソチゲ作る美人のカミさんがいるのに、他の女を好きになる男なんて、世界中捜したっていませんよ。断言します」
「……ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」
スンミは微笑んで、チョルスのおかわりの椀を持って席を立った。
でもね――
あの人は、やっぱりいつも遠くを見ている気がするの。
私や娘がいても、いつもどこか遠くを。
「……結婚しても、片思い」
「何か言いました?」
無意識のうちに声に出してしまった言葉をチョルスに聞かれて、スンミは慌てて手を振って言った。
「ううん。何でもないわ」
その笑顔はやはり、どこか寂しげだった。