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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第6章【許されるなら】
175/219

6-22


「……サンウは、僕を助けてくれたんだ。誰よりも愛してた母さんを、その手にかけて」


 ナビは眠るミンホに向かって語り続ける。


「……僕は、本当はあの時、死んでるはずだったんだ。母さんと一緒に、死んでなきゃいけなかったんだ」


 ミンホの乾いた唇が、今は何の言葉も紡がないことがナビにはありがたかった。きっと今ここで何かを口にされたら、自分は壊れてしまう。今まで胸に秘めてきた全てのことが決壊して、もう二度と立てなくなりそうだった。


「ごめんね……大好きだよ。ずっと、お前と一緒に生きていきたいけど、一緒に死んであげたいのは、サンウなんだ」


 ナビの頬を、後から後から涙の雫が伝って落ちる。

 それはミンホの乾いた唇を潤して、顎に沿って流れ落ちる。


「サンウは僕を助けてくれたのに、僕はサンウを売ったから」


 ナビは自分の涙で濡らしたミンホの唇を優しく指でなぞると、そのままそこに口付けた。


「……死んで、あげなきゃいけないんだ」





 降りしきる雨の中、透明のビニール傘をさして悪天よりもさらに不機嫌な顔をして歩く少年がいる。


 あれは、僕だ。


 夢の中のミンホは、これは夢だと認識しながら、幼い日の自分を見ていた。

 公舎が立替えになったおかげで、仮住まい期間中は塾までの道のりが遠くなってしまった。


 おまけに季節は6月。

 うっとうしい梅雨の真っ只中。


 ただでさえジメジメと機嫌の悪くなる要素は山盛りなのに、狭い仮住まいの中では、かしましい二人の妹と同じ部屋にならざるを得ず、ストレスは溜まる一方だった。


 少しは気が晴れるかと、汚れたスニーカーで水溜りを蹴り上げてみれば、思いのほか跳ね上がった水飛沫でお気に入りだったTシャツを汚してしまった。

 誰に当たるワケにもいかないので、ミンホは悔し紛れに持っていたビニール傘を畳んで、思い切り民家の壁に叩き付けた。

 衝撃で傘の骨が一本折れ、不恰好になった傘を差したまま、ミンホはトボトボと歩き出した。


 その時、頭上から掠れた人の声が降ってきた。


 見上げたアパートの二階の部屋、ほんの少し開いた窓の隙間から漏れてくるすすり泣きにも聞こえるその声が、歌を紡いでいるのだと気づいた時、ミンホは自然に足を止めていた。


 それは決まって、いつも雨の日にだけ聞こえてくる不思議な声だった。

 掠れた子どもの、甘い歌声。

 塾から帰る道すがら、いつしか無意識にその歌を捜して耳をすませるようになっていた。


 やがて公舎が完成し、仮住まいを引き払い町を出て行く日が来ても、耳に残った歌声は消えることなく、アパートの記憶が薄れても、不思議な歌の記憶だけは、いつまでもミンホの中に残っていた。



 スッと浮き上がるように目が覚めた。


「……ナビ……ヒョン?」


 しっとりと湿った空気。

 枕元に無造作に置かれた腕時計を覗き込んで、もう朝と呼んでもいい時間帯なことに気づく。

 だがカーテンから漏れてくる光はほの暗い。

 ベッドから起き上がって、フローリングの床に足をつく。

 素足を這い上がってくるヒンヤリとした冷たさに身震いしながら、部屋の中を見回す。


「……ヒョン?」


 そこに人の気配はない。

 胸騒ぎが、狂ったような鼓動に変わる。


「ヒョンッ!!」


 ミンホは叫んで、窓辺に駆け寄った。

 ザッと音をさせて乱暴にカーテンを開け放てば、いつの間に降り出したのか外は雨だった。

 見下ろす早朝のソウルの街は、灰色に霞んでいる。


(……騙したくて騙すわけじゃないよ。そうするしかないって、時もある)

(そんなイジワルしたことが?)


 不意にミンホの脳裏に、明慶大学への潜入捜査の折、ナビと交わした会話が蘇ってきた。


(ナビヒョンは、仕掛ける側ですかね? 小さい弟や妹がいたら、寝てる間に姿を消して、遠くからそっと様子を覗ってるとか)

(……そうだね)


 寂しげに微笑んで、肯定も否定もしなかったナビ。

 なぜあの時、胸騒ぎにも似た思いに囚われたのだろう。

 ナビのことを、何一つ知らなかったのに。


「……あ」


 ミンホは口元を押さえて、思わずその場に膝をついた。


 様々な記憶の糸が、ミンホの中で今一つに繋がろうとしていた。

 込み上げる、吐き気をもよおすほどの眩暈の中で、ミンホは何かに助けを求めるように、必死の思いでカーテンに手を伸ばす。ブチブチと音を立てて外れたカーテンは、細身の身体に巻きついて、倒れこむミンホと一緒に、冷たいマンションの床に広がった。


(歌が合図だった――コトが終わった後、奴が寝ている隙に、坊やの歌が警官たちを招き入れる合図だった)


 優しい雨の、別れの歌……


(出逢ったとき、あいつは口が利けなかった……裸足で、ゴミの山に隠れるようにして、震えながらうずくまってた。猫みたいに)


 カーテンの中で、身悶えるように苦しげに息を継ぎながらミンホは呟いた。


「……思い、出した」





 塾の帰り道、古いアパートの下で聞いていた歌声。

 僕は、随分昔から、あなたの声を知っていた。


 最後の歌を歌い、声を失ったあなた。


 あれは、あなたからあの人への、贖罪の歌だったんだ。









第6章【許されるなら】完


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