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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第6章【許されるなら】
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6-21


 母は、元々弱い女だった。


“母”よりも、常に“女”であった彼女は、だからこそ渡り歩く先々で“男”に愛され、いつまでも少女のように儚く残酷でいられたのかもしれない。

 巡り行く季節の中で実に様々な男が彼女を愛し、その前を行き過ぎたが、彼女が真実愛した“男”はたった一人だった。


「……ハヌル、お父さんはね……」


 うっとり夢を見るようにそう呟く母は、いつも生き写しだと言っていたナビの瞳の奥に、ただ一人の“男”の面影を探していた。


 その昔、ギター一本を背負い、音楽を志してソウルにやって来たというその男は、都会で夢破れた末に妻や子に暴力を振るうことでしか生きられない、つまらない男に成り下がっていた。散々殴られ、まだ赤ん坊だったナビともども何度も瀕死の目にあわせられ、男の元を逃げ出しても、いつも母は自分から、そのろくでなしの元へ帰って行ったという。


 監獄とシャバの出入りを繰り返し、自分で売るだけでは飽き足らず手を出したドラッグに溺れ、男はナビが物心つく頃には、監獄よりも陰惨とした重度中毒患者の隔離病棟に閉じ込められていた。

生きる屍より尚タチの悪い、幽霊よりもおどろおどろしく気味の悪い実の父親がナビは嫌いだった。


 だが、母は彼を生かしておくためだけに、酒場を渡り歩き男たちに身体と心を切り売りして、金を捻出してきた。

 本当は母がサンウと出会った頃も、あの屍はひっそりと息を殺して、隔離病棟で最後の生の炎を燃やしていたのだ。


 母はサンウから“愛”を吸い取って、彼女が本当に愛する、屍の命を繋いでいた。

 婚姻届の代わりに、母はサンウに膨れ上がる借金の連帯保証人のサインを求めた。


 私を愛しているのなら、サインできるはず――


 無邪気な顔で、しかし高飛車にそう告げる母の願いをまともに聞き入れてしまうほどに、サンウもやはり、盲目的に母を愛していたのだ。

 だが、そんな母やサンウの思いを最後まで嘲笑うかのように、屍は母から搾り取れるだけの金と愛を搾り取って、その命の炎をひっそりと燃やし尽くした。

 屍が消えても尚消えない、これまで命を繋ぎ止めるために費やした莫大な借金を、遺産代わりに母に残して。


 屍が消えたその日から、母は寄る辺を失った。


 毎晩、屍の分から少しだけもらい、噛み砕いて飲んでいた睡眠薬は、日増しにその量が増えていった。

 耐性がついて効果がみえなくなってくる頃には、酒で大量の薬を流し込むようにして眠った。

 屍を愛した母は、自らも屍になって自分を置いていく気なのだ――ナビは日増しにやせ細っていく母を見ながらそう思っていた。


 その日、帰宅したナビは、鏡台の前で久しぶりに美しく着飾った母を見た。


「オンマ?」


 母は、一番のお気に入りの舞台衣装を身にまとっていた。

 細く絞られたウエスト部分は、骨と皮ばかりになった彼女には余るほどで、スパンコールに彩られた衣装は無残に弛み皺になっていたが、それでも久しぶりに見る美しい母だった。

 母は鏡台に向かって、鼻歌を歌っていた。


「……母さんは、どうしてサンウを見てあげないの? あんなに優しいサンウを、見てあげないの?」


 答えなど期待せずに、ナビは大きく背中の開いたドレスから、染み一つ無い白い肌を晒す母に問いかけた。

 だが、予想に反して母は振り返った。


「……ごめんね、ハヌル」


 それは、久々に聞くまともな母の声だった。


「おいで。抱っこしてあげる」


 酔っているのか? 疑いながらも、ナビは大好きだった母の膝に、促されるまま身体を預ける。


「……可愛いハヌル……大好きよ」


 母はナビを抱きしめ、その首筋に形の良い鼻を埋めた。

 母から香る安物の化粧品と酒の匂いがナビの胸を締め付け、視界を曇らせる。


「……オンマ?」


 ナビを抱いたまま動きを止めてしまった母の肩に、ナビは恐る恐る手を伸ばす。

 もしや眠ってしまったのかと思ったが、よく耳を済ませてみれば、母がその昔酒場の男たちを虜にした、甘く掠れた声で歌を口ずさんでいるのが分かった。


「それ……」

「『雨の歌』よ……小さい頃、あの人が作ったこの歌を歌うと、どんなに機嫌が悪い時でも、あなたはすぐに泣きやんだ。そんなに好きならって……歌のタイトルを、あの人があなたに付けるように言ったのよ。まだ言葉も話せないあなたに……ふふ、覚えてる?」

「……覚えてない」


 冷たく答えるナビに構わず、母は思い出に向かって笑いかける。


「あの人が窓辺に座ってギターを弾き始めた時、あなたは窓の外を指差してとても嬉しそうに笑ったの。夏の初め、通り雨が道路を叩く音がリズムになって、あの人のギターにぴったり重なっていた」


 母はナビのやわらかい首筋に、更に強く鼻先を埋めて続ける。


「あの人の喜びようったらなかったわ。あなたを抱き上げて『ハヌルは、音楽が分かるんだな』って、大喜びだった。ハヌルが始めて聞いた『音楽』だから、これはハヌルの歌だって」


 母はナビの匂いを胸いっぱいに吸い込み、まるで赤ん坊だった頃のナビを思い出そうとしているかのようだった。


ハヌルって名前をつけたのも、あの人だったのよ。あなたが生まれたのも、空が泣いてるみたいな、雨の日だった」


 そう言って、微かに鼻を啜る音が、ナビの耳元近くで聞こえる。聞きなれたその音は、酔客の相手をして帰る道すがら、眠ってしまったナビを抱きながら、その首筋に隠れるようにして、いつも少しだけ泣いていた母のものだった。


ハヌルの『雨の歌』よ。優しい歌……私も、大好きだった」


 吐息とともに、柔らかい声が耳をくすぐる。


「……優しい雨の、別れの歌よ」


 正気だった頃の父が残した、最後の幸せな思い出。

 それから彼が二度とギターを持てなくなるまでに、長い時間はかからなかった。


 母はまた歌い出す。

 そっと目を閉じれば、顔も忘れた若かりし日の父の姿まで浮かんでくるようだった。

 だがその時不意に、歌が止んだ。


「……オンマ?」


 記憶の中の雨もあがり、ナビの意識は再び寂れたアパートの一室に引き戻される。

 ふと顔を上げたナビの目に、鏡台の隅で何かが蛍光灯の光にキラリと反射するのが見えた。

 それが母が振り上げたナイフだと気づくまでに、数秒の時間を要した。


「オンマッ!?」


 驚いて、思わず力いっぱい母の肩を突き飛ばした。

 枯れ枝のようにやせ細った母の身体は簡単に弾かれ、ガタガタッと音を立てて鏡台にぶつかった。


「……ハヌル……一緒に逝きましょう……お父さんのところへ……歌が聞こえるから……父さんの……優しい雨の歌が……」

「オン……っ!!」


 母はどこにそんな体力が余っていたと言うのか、這いつくばるようにしてナビの足首をつかみ、ジリジリとナイフを持ったまま競りあがってきた。

 ナビは恐怖のあまり、ひきつけを起こしたように喉の奥が閉まり、まともな悲鳴すら上げることができなくなっていた。


「……やめ……やめ……て……」


 圧し掛かられ、見開かれたナビの黒い瞳の中で、母が手にしたナイフがきらめく。

 ヒュッと風を切る鋭い音が、ナビの胸に向かって真っ直ぐに振り下ろされる。


「やめろっ!! ユジンッ!!」


 ドスッという鈍い音がして、ナビの脇の腐りかけたアパートの床に、ナイフが突き刺さった。

 ナビの上に馬乗りになっていた母の体重が急に消えうせて、目の前ではサンウに髪を引きずられた母の姿があった。


「いやっ! 離してっ!」


 母はサンウから逃れようと暴れながら、床に刺さったナイフに手を伸ばした。その目にとうに正気の色はなく、もうそこにナビの知る母の姿は無かった。


「一緒に逝こう、ハヌル。誰にも、邪魔なんかさせないからっ」


 執念深くナイフを手に取った母が、再びナビを押し倒そうと迫ってくる。


「ユジンッ!!」


 身動きできないナビを壁の隅まで追い詰めた母の手から、一瞬、鈍く光るナイフが消えた。


「……ッ!!」


 次の瞬間、母が大きく背中を仰け反らせた。

 後ろから、抱きすくめるように母の胸に手を回したサンウの指の隙間から、深々と母の胸に突き刺さるナイフの柄が見えた。

 母は目を見開いたまま、ナビを見下ろしていた。

 ナイフの柄を握ったままのサンウの表情は、母の首筋に顔をうずめているので見えない。

 やがて、母はゆっくりとナビに向かって崩れ落ちてきた。


「……あ……あ……」


 ガタガタと歯を鳴らし震えるナビは、既に息をしていない母を押しのけることすら出来ない。

 母の胸から流れ出る鮮血が、押し倒されたナビの胸をも汚していく。

 後ろから母を抱きしめるようにしていたサンウが、ナビの身体から血に汚れた母を取り除いてくれた。


「……ハヌル」


 サンウは震えるナビに手を伸ばし、そのままその身体をひっぱり上げた。


「……大丈夫だ。お前は何も悪くない」


 サンウはナビの頭を強い力で自分の胸に掻き抱いた。サンウの服も、血に染まる。


「いいな? お前は、悪くない。ユジンは、自分で死んだんだ」


 肩を掴んで、サンウはナビに言い聞かせるように呟いた。


「俺が出て行ったら、すぐに隣りの部屋の奴を呼ぶんだ。帰ったら、母さんが死んでたって……できるな?」


 ガタガタと震えるばかりで頷けずにいるナビの頬を、サンウは軽くペチンと叩く。


「しっかりしろ! 大丈夫だから……お前は、俺が絶対守るから」


 サンウは胸に散った血痕もそのままに、アパートのドアを開けた。

 いつのまにか振り出した雨の音が、血なまぐさい室内に入り込んできた。

 出て行く直前、クシャッとナビの髪に撫でたサンウの手もまた、自分と同じくらい、どうしようもなく震えていたことを、ナビは知っていた。


 愛する女をこの手にかけた――


 サンウが背負う、自分のために侵してくれた罪の重さを、幼いナビは知っていた。




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