6-20
「……どこかで、聞いた覚えのある曲なんです。でも、どこで覚えたのか、誰に聞いたのか……昔から気になっていて、母にも尋ねました。でも、結局分からないままだった」
「ああ、それは『雨の歌』だよ」
ミンホの髪を撫でていたナビは、なんだそんなこと?とでも言うように、気易く答えた。
「……『雨の歌』?」
顔を上げるミンホに、ナビはベッドの中で頷いて見せる。
「正式なタイトルなんか知らない。だけど、昔母さんがよく歌ってくれたから覚えてる。これだろ?」
そう言って、ナビは小さな声でその歌を口ずさみ始めた。
ハルラン……ハルラン……
雨が降る――
ミンホは思わずベッドの上に飛び起きて、ナビを見つめた。それは、まさしく彼が事ある毎に思い出し、気になりながらも、どうしても分からなかった、記憶の彼方からいつも聞こえてきたあの歌に違いなかった。
「すごい! 誰に聞いても分からなかったのに」
ナビはひとしきり歌い終えると、隣に身体を横たえたミンホに、寝物語のように、掠れた甘い声で歌について教えてくれた。
「歌詞はメチャクチャなんだよ。もともとメロディしかなかった曲に、母さんが詞をつけたんだ。だけど母さんが歌うと、本当に雨の音と匂いがした」
そう言われると、静かに物悲しく弾けるメロディは、本当に雨音のようだった。メチャクチャだというその歌詞は、しかしこれ以上はないというほどに、雨のメロディに馴染んでいた。
「……あなたの歌声、初めて聞きました」
「そうだっけ?」
情事の後の気だるい甘さの中で、ミンホはトロリと溶けていく意識に身を委ねながら、呟いた。
「……初めて聞くのに……懐かしい。やっぱりあなたは、不思議な人です」
「ミステリアス?」
「発音、良くないから」
わざと巻き舌でそう言うナビに、ミンホの冷静な突っ込みが入る。
いつもの調子を取り戻した彼に、ナビがケラケラと笑う。
「……あ」
ナビのハスキーな笑い声の隙間から、ミンホは不意に微かな音を拾う。
「降ってきた?」
言われてナビも耳をすますと、確かに雨の音が、小さく窓を叩いていた。
「……あなたに会う時は、いつも雨だね」
するとナビは悪戯っぽく笑って、ミンホの汗で濡れた髪を掻き上げる。
「知らないの? 猫は、雨を呼ぶんだよ」
「……どういうこと?」
ミンホが言葉の意味を測りかねて眉を寄せると、ナビは小さな拳を口元に当てて笑った。
「It rains cats and dogs!」
たどたどしい発音で、それでも得意気にそう言うと「どうだ!」と言わんばかりの視線を、隣にいるミンホに向けてくる。
「だから、発音良くないってば」
意地悪を言うミンホに構わずに、ナビはご丁寧にその意味まで教えてくれる。
「“嵐に会う”っていう意味の諺なんだって。猫は雨を呼んで、犬は風を呼ぶっていう言い伝えがあるから」
ミンホの頭にはなんとなく、この幼い講釈をナビに吹き込んだ人物の顔が浮かんでいたが、二人だけのベッドで過ごす甘い時間の中に、あの人を食ったような軽薄な医者を入れてやるのは嫌だったので、敢えてその名を口に出すことはしなかった。
そんなミンホのささやかな嫉妬心に気付く筈もなく、ナビは珍しく自分が一歩リードしたと上機嫌で、頬杖をつきながら、ミンホの高い鼻筋をなぞっている。
「お前でも、知らないことがあるんだね。エリートさん」
「そうですよ」
ミンホはシレっとした口調でそう言うと、自分の鼻を弄んでいたナビの手首を引き寄せる。バランスを失った猫は、あっけなくミンホの胸に落ちて来た。
「知らないことばかりですよ、特にあなたのことはね。だから、教えてください。僕の、子猫ちゃん」
普段なら歯の浮くようなセリフでも、しっとりとしたこの雨の夜の中では、二人の肌の熱とともに、不思議と溶け合い馴染んでしまう。
自分の胸の中に囚われているナビの柔らかい髪を梳きながら、ミンホはその丸い額に、そっと優しいキスを落とした。
そう、猫は雨を呼ぶ――
だから、猫が呼んだ冷たい雨の中で凍えないように、二人で身体を寄せあっていよう。
鼻先を擦り合わせて至近距離で見つめ合うと、ナビからもそっと、ミンホの唇に小さなキスを返してくれた。
「……おやすみ、ミンホ。いい夢を……僕が、歌ってあげるから」
ナビの心地よい囁きが、優しくミンホの耳を塞ぐ。
ミンホは再び耳元でハミングを始めたナビの歌声に耳をすませながら、静かに目を閉じ、やがて眠りの淵へと落ちていった。
気持ち良さげに寝息を立てるミンホを長い時間見つめていたナビだったが、静かに身体を起こしベッドの真鍮にもたれると、ミンホを起こさないようにそっと、その頭を自分の膝に抱きかかえた。
この姿勢の方が、ミンホの寝顔をよく見られる。
最近伸びてきた前髪も、心ゆくまで梳くことができる。
ミンホに、思うままに触れることができる。
今だけは、それが許される。
「……驚いたよ」
暗い部屋の中で、眠るミンホに届かないことを承知で、ナビは語りかける。
「お前には、知られたくなかった。僕の過去に、傷ついて欲しくなかった……お前は優しいから……本当は、誰よりも優しいこと、ちゃんと知ってたから……ごめんね」
ミンホの頬で、ポツリと一粒、ナビの瞳から零れ落ちた雨が弾ける。
「……だけど、お前も知らないことがあるんだ。僕とサンウしか、知らないことも、あるんだ」
膝に乗せたミンホの頭を懺悔するように強く掻き抱いて、ナビは肩を震わせた。