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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第6章【許されるなら】
172/219

6-19


 暗闇の中では、二人の息遣い以外に音は無い。

 街のネオンから遠く空中に切り取られた空間で、ナビはミンホの、ミンホはナビの、徐々に熱を含んでいく呼吸の音だけを頼りに、互いの存在を求め、感じていた。


「……可笑しいだろ?」


 二人で抱き合いながら、ナビがふと声を漏らす。


「何が?」


 シャツを捲りあげたナビの、露わになったその胸に唇を落としていたミンホは、動きを止めずに尋ね返す。


「自分でも、分からないんだ。物心ついた時から、僕は“男”で……それ以外の生き方なんか知らなかった」


 ナビの声が微かに震えていることに気が付いて、ミンホはナビの温もりから離れ、顔を上げた。


「でも、僕が本当に“男”だったら、きっと、こんなことにはならなかった」


 ナビの言う『こんなこと』が、ナビとナビの義父のサンウのことを言っているのだと分かっている。

 “男”として育てられたナビにとって、今更“女”である自分を受け入れられる筈がない。

 だが全ての元凶は、紛れもなく“女”である自分から生まれた。

 そう苦悩するナビが痛々しくて、ミンホは言葉の代わりに、ベッドの上でナビの背中がしなるほど、ナビを強く抱きすくめた。


「言ったでしょう? あなたは、あなただって。僕にとっては、それが全てだ」


 そう言うと、ナビの華奢な顎を掴んで横を向かせ、そのまま反対側の耳に唇を付け、わざと熱っぽく囁きかける。


「それに、男でも女でも、僕はあなたを最高に気持ち良くさせてあげられるよ」


 途端に、ナビの耳が沸騰したように熱を持つ。

暗闇でなければ、きっと真っ赤に染まった可愛い耳朶を拝めたのにと、ミンホが笑うと、ナビは小さな拳でポカポカと、彼の逞しい筋肉で張った肩を殴った。

 ひとしきり笑い終えると、ミンホはそんなナビの拳を掴んで、年下らしい無邪気な笑みを引っ込めた。

 改めて強い視線でナビを捉えると、ゆっくりとナビの身体に覆いかぶさっていく。

 見上げるナビの頬に、ポタリ……と、ミンホの汗の雫が垂れた。

 裸の胸には、水滴のような汗の珠が浮かんでいる。


「……いい?」


 短くストレートなミンホの問いに答える代わりに、ナビはミンホの背に回した腕にそっと力を込めた。



 ミンホの愛撫に、ナビは何度も闇の中で白い身体を波打たせた。解放されない快楽に焦れるうちに、部屋の湿度はとうに飽和状態を迎えていた。

 ミンホはナビの子どものように華奢な膝に手をかける。

 膝裏の柔らかな肉を持って、少しずつ開かせれば、ナビは居た堪れない恥ずかしさに頬を染めて、肘で乱暴に目を覆った。

 グッと力を入れたミンホが足の間に身体を割り込ませて来た直後、覚悟を決めたようにナビは固く瞼を閉じた。

 しかし、そこでミンホは突然動きを止めた。

 ナビが恐る恐る目を開けると、不安に揺れたミンホの大きな目にぶつかった。


「……どうしたの?」


 ミンホは、ナビの膝に置いた手を離し、自分の片手でもう一方の手を押さえていた。


「……おかしいな……緊張してる」


 そう言って自嘲気味に笑って見せる顔は、今にも泣き出しそうだった。

 見れば、押さえつけられた右手は小刻みに震えている。


「腕の中に、あなたがいる。幸せすぎて……震える……怖くて……」


 それは肌を通してナビにも伝わっていた。


「……バカだね」


 ナビはそっと、ミンホの胸に顔を埋めて笑う。


「こうしてるだけでも、気持ち良くてどうにかなりそうだよ」


 カッとミンホの身体が、羞恥に染まったのが分かる。

 ナビは動かずに、しばらくそのまま互いの体温を感じて熱を交換するだけの時間が続いた。

 どれくらいの間そうしていただろうか。

 やがてナビは顔を上げて、ミンホのほっそりした頬を両手で包み込んだ。


「……大丈夫、だから」


 そう言って少し首を傾げながら、ミンホを覗き込むようにして微笑む。


「……おいで、ミンホヤ」


 頬に触れていた手は、そっとミンホの首筋を通って鎖骨を辿り、胸を真っ直ぐに滑り降りて行くと、そのまま力を無くしたミンホ自身を優しく握りこんだ。


「ヒョン?!」


 驚いて固まるミンホに構わずに、ナビは優しく自身の両手を重ねた。


「力抜いて……ね?」


 そのまま、ナビは優しい動きでミンホを扱き出す。


「……ヒョ……」


 ヒュッと喉を鳴らして息を詰めたミンホを気遣うように、ナビは「大丈夫」と何度も囁きながら、手の速さを増していく。それに合わせるように、ミンホの眉根に寄せられた苦しげな皺が、その深さを増していった。

 


 荒い呼吸をついで、そのまま二人で横向きにベッドに倒れこむ。

 ナビの手によって初めて経験した快楽の気だるい余韻に浸る間もなく、ミンホはギュッと背を丸めて、タオルケットの中に顔を隠してしまった。


「……ミンホ?」


 ナビはミンホが隠れてこんもりと盛り上がったタオルケットの上を、ノックするように叩く。


「どうしたの?」


 返事がないため、ナビは仕方なく何度も何度もノックする。


「ミンホってば」


 徐々に苛立ち始めたナビの様子に、ミンホはようやく消え入るようなか細い声で、シーツの中から返事をした。


「……恥ずかしいんです」

「へ?」


 聞き間違いかと、ナビは盛り上がった人型の山の上に耳をつける。


「……あなたとの……初めては……いろいろ、僕だって……その……考えてたのに……」


 最後の方はゴニョゴニョと、ほとんど言葉になっていなかった。

 ナビはキョトンと目を丸くしていたが、やがて弾かれたように笑い出した。


「な……何が可笑しいんですかっ!? 酷いですよっ、僕だって……」


 堪らずタオルケットを剥ぎ取って飛び起きたミンホに、ナビは隙ありとばかりに、その首に飛びついて抱きしめた。


「ちょっ……ナビヒョン?」


 面食らうミンホに構わず、ナビはミンホの頭をめちゃくちゃにかき回し、そのまま今度は自分が押し倒すような形で、再びミンホをシーツの上に沈めた。

 抱きしめたミンホの頭を横抱きにして自分の胸に引き寄せ、ナビはミンホの髪を指に絡めながら、優しく梳き始めた。


「よしよし……いい子、いい子」

「僕は、赤ちゃん?」


 ナビに抱かれ、唇を尖らせるミンホに、ナビはふふふっと息を漏らして笑った。


「こうしていると、落ち着くでしょ? 心臓の音を聞かせたら、よく眠れるって言うじゃない」


 ナビの言うとおり、トクトクと脈打つ鼓動と裸の胸の温もりは、不思議な安らぎを与えてくれる。


「……子守唄がなくちゃ」


 そっと目を閉じたミンホは、自分が子どもに戻ってしまったような錯覚を覚えた。自分が守ると決めて、半場強引にこの部屋に連れてきたのに、今は無性にこの胸に、ナビに甘えたい。


 年下の特権――今この場で初めて発揮してもいいのだろうか?


「何がいい?」


 ナビはそんなミンホの心を見透かすように、優しく甘やかしてくれる。

 その時、ツキン――とミンホのコメカミをあの刺すような痛みが襲ってきた。

 耳鳴りの奥からいつも聞こえてくるあのメロディ。

 ミンホは無意識の内に、乾いた唇からそのメロディの欠片をハミングしていた。




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