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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第6章【許されるなら】
171/219

6-18


「……何で?」


 暗闇の中に、ナビの声が震えて落ちる。


「好きだから」


 ミンホはナビの肩を抱いたまま、首筋に顔を埋め強く囁いた。


「あなたが、好きだから」


 言葉と同時に、ミンホの腕はナビの胸の前に回り、そのまま背後から、骨が軋む程の強い力で抱きしめる。

 

「僕と二人で……この部屋で暮らしましょう。温かいベッドと、冬になったら暖房も入れて……冷たい部屋なんて、あなたには似合わない。あんな部屋に、あなたを二度と帰したくない!」

「……お……前」


 首筋に噛み付くように熱く囁き続けるミンホの言葉に、ナビの黒い瞳が、チラチラと不安気な光を宿して瞬く。


「何……を?」


 泣きそうな声で、ナビは振り返る。


「……まさか……知ってるの?」

「ヒョン」

「どこまで?……僕の……」


 パチンッと弾けるように、ナビの瞳から光が零れた。


「何でっ! どうして?!」


 ナビは我を忘れたように、ミンホの腕の中でもがく。閉じ込められた広い胸を叩き、ミンホの拘束から逃れようと身を捩る。


「ヒョンッ!」


 不意をついて腕から逃げ出したナビが、部屋の中に逃げるのを追って、ミンホも靴を脱ぎ捨てる。

 ナビはベッドの前で呆気なくミンホに捕まった。


「離してっ!」


 ミンホはそのまま暴れるナビをベッドに押し倒し、ナビの両手を頭の上で一つに束ねて、シーツに押さえつけた。

 互いに息を切らせながらの攻防が続いたが、やがて先に体力の限界を迎えたナビの身体から徐々に力が抜けていった。


 ハア……ハァ……


息を切らせながら、ナビは黒曜石のような漆黒の瞳でミンホを見上げる。

 ミンホも肩で息をしながら、ナビをベッドに押さえつけた姿勢のまま、口を開く。


「あなたがどんな人生を歩んで来たとしても、関係ないんです。傷を含めて、あなたなら……あなたの傷にだって、僕は口付けたいんだ」


 真っ直ぐに見下ろされ紡がれる、あまりに直接的なミンホの思いに、胸の内が絞り上げられるような痛みを覚える。

 滲んだ視界の先で、ミンホの少し臆病な目が揺れた。


「……許して。僕に、あなたを愛することを、許してください」


 ベッドに縫い付けられていた腕を押さえる力が弱まり、ミンホはナビの身体の上に乗り上げたまま、ジッとナビの許しを請うように俯いた。


 ミンホに掴まれた手首は、既に熱を持って赤く腫れ始めていた。

 ジンジンする痛みは、そのまま胸の痛みに繋がっていた。


 ナビは恐る恐る身体を起こし、サラリとしたミンホの髪の中に指を滑らせる。

 ミンホが顔を上げ、二人の視線が暗闇の中で絡み合う。


「……バカ」


 囁いて、その手がミンホの後頭部に回る。


「……本当に、バカなんだから」


 そう言ってナビは力を込める。

 落ちてきたミンホの身体を抱き寄せ、そのまま二人はゆっくりとベッドに沈んで行った。





 東の空が徐々に白み始めている。


 もう出かけなければ――そう思う心とは裏腹に、いつまでもここに留まりたい気持ちが頭をもたげる。

 あと二時間もすれば、早起きの妻は自分のために起き出して、自分の好みばかりの朝食の芳しい匂いをこの幸福な家に満ち溢れさせるのだろう。


 絵に描いたような幸せ。


 自分にそんな出来すぎの未来が訪れるなんて、あの頃は想像もしていなかった。

 だからこそ、妻と結婚して五年――過ぎた幸せは、ありがたくかけがえの無いものでありなながら、いつもどこか他人事で、現実感がなかった。


 今ベッドに横たわる二人の愛しい家族を前にしても尚、後ろ髪を引かれる気持ちに苛まれながら、それでもこれから選ぶ道を決して後悔はしない自分がいる。


「……許せよ、スンミ」


 妻が好きだと言った太い無骨な指で、いつまでも少女の面影を残す妻の髪を梳く。妻によく似た一人娘は、隣りでタオルケットに包まって指を咥えながら眠っている。


 妻と娘、それぞれの額にキスを落として、男は立ち上がった。

 玄関の扉を開けると、まだ薄暗い夜空には星が瞬いていた。


「……あっれぇ? 先輩、みーつけたぁ」


 その時、フラフラと千鳥足で敷地内に入ってきた影が、呂律の回らない調子で玄関に立っていた男に向かって歩み寄ってきた。

 男は思わず身構える。


「……チョルスか?」


 男が眉を潜めて、薄暗い庭の中を蛇行しながら近づいてくる人影に向かって声をかけた。


「あっはぁ……そうれす、チャン・チョルス警査ですぅ」


 そう言って男の元にたどり着くと同時に、チョルスは玄関前に倒れこんだ。


「おいっ! 飲んでんのか?」

「先輩ぃ……こんな時間に、どこ行くんれすか?」


 真っ赤な顔をして、無邪気に男を見上げてくるチョルスに、男は渋い顔をしながら答えた。


「お前こそ、人訪ねてくる時間じゃねぇぞ」

「俺わぁ、先輩のぉ……お見舞いに来たんれすよぉ。なのにぃ、非番だったのにぃ、クムジャ姉さんに捕まって……っう」

「うわっ! お前、人の家の庭で吐くなよっ!」


 男は悲鳴を上げて、酩酊したチョルスの肩を掴んだ。


「ったく、しょうがねぇな」

「……あなた? どうかしたの?」


 騒ぎを聞きつけた妻が、奥の寝室からカーディガンを羽織って出てきた。


「チョルスの野郎が酔って潰れてんだ。悪いが手伝ってくれ」


 男は妻を振り返り、呆れたようにそう言った。


「まあ、大丈夫? チョルスさん」


 妻がチョルスを介抱している間、男は後ろ手に、朝の空気を吸ってヒンヤリと冷たくなった銃を、ズボンの中に隠した。




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