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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第6章【許されるなら】
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6-17


 残業と称して、一睡もしないまま極秘任務に当たり、そのまま日勤に従事するのは、まだ三十半ばの若さとは言え、ジノンの身体に相当応えた。

 おまけに、得られた結果は長年の刑事の感が警鐘を鳴らすような代物で、ジノンはやる気皆無の先輩たちを追い出した後の鑑識室で、今日も一人で二日目の残業に突入していた。

 ノ・ヒチョルに依頼された血痕のついた爪と毛髪。

 爪に残された血痕は、ヒチョルが差し出した毛髪と同一人物のものだった。

 では、この爪は一体誰のものなのか?

 爪に血痕が付着するような場面は、通常その爪の持ち主と何者かが争ったケース意外考えられない。

 そして、ヒチョルがその爪を持ち出して来ているということは、この爪の持ち主が今生きているとは考えにくい。

 勿論、生きた状態でヒチョルに爪を切らせて持って行かせたというのなら話は別だが。

 謎の多いヒチョルのこの依頼とそれに伴う連日の徹夜作業で、頭の芯に痺れるような疲労が蓄積されている。

 ジノンは少し眠ろうと、広げていた資料を脇にどけて、思い切り机の上に突っ伏した。

 すぐにイビキに近い寝息を立て始めたジノンだったが、寝入りばなの夢見の悪さにビクッと身体を震わせた瞬間、横に積んでいた資料の山に肘を当て、鑑識室の床にばら撒いてしまった。


 バサバサバサッ――


 乾いた音を立てて扇状に広がる紙たちを、ジノンは寝ぼけ眼で慌てて拾い集める。

 順番などがめちゃくちゃに崩れ、既に古いものも新しいものも分からなくなっていた。


「……あーもう、何やってんだか俺は」


 思わずそう一人ごちて、新旧入り乱れた資料の山を拾い上げて行った時、ジノンはファイルから飛び出した一枚の紙を見て、動きを止めた。


「……これ……」


 月何百体と回されてくる、物言わぬジノンたちの得意客、8月の『顧客リスト』の中に、ソレは紛れていた。

 数値に変換されたソレは、既に人ではなく膨大な量の中に埋もれる『データ』の一つになってしまっているが、データばかりを追い続けているジノンにとっては、そのデータが固有名詞以上に、明確に個人を特定するものに他ならなかった。

 ジノンが手にした紙の中には、ここのところ夜を徹してジノンが追いかけてきた人物その人が『データ』として描かれていた。


「あの爪が……どういうことだ?」

「よく見つけたな」


 相変わらず何の気配もさせず、ノ・ヒチョルがいつの間にか鑑識室のドアにもたれてこちらを見ていた。


「さすが、優秀な鑑識官だ。俺が若かったら、本当にお前を一から仕込んでやりたかったよ」

「ノ警査っ! これは一体?!」


 ジノンは手にした紙を床の上に叩きつけるようにして、ヒチョルを見上げた。


「なぜ、ホン・サンギョ警査の司法解剖データと、俺がずっと調べていた爪のデータが一致するんですか? この爪は、ホン警査のものだったんですか?!」

「そうだ」

「なぜ、あなたがホン警査の爪なんか……」


 ジノンは混乱しきった頭で、一つ一つの事実を確認し直して行く。


「……いや、それにホン警査は拘置所の中で自殺した筈です。この爪が本当にホン警査のものだったとしたら、爪に自分以外の人間の血痕が付着する場面なんて……」


 言いかけて、ジノンはハッと口を噤んだ。


「……あの、毛髪は……一体誰のものです?」


 知らず、ジノンの声は震え出す。

 嫌な予感に、体中からネバついた汗が噴き出した。


「爪に残った、血痕は……」


 ヒチョルはジノンの肩越しに、日の光を年中遮って少し色の褪せてしまったブラインドに目を向けて、淡々とした声で言った。


「チャン・チョルス警査とは、確か同期だったな」

「え?」


 唐突に振られた脈絡のない話題に、ジノンは虚を突かれたようにヒチョルを見る。


「お前と違って、泥まみれになりながら現場を歩いて来た男だ。『狂犬』なんて、呼ばれてる――」

「ノ警査?」


 何を言いたいのか、ジノンの目が暗に咎めるようにヒチョルに向かって細められる。


「俺は、あいつを入庁の時から見てきたが、なかなか見所のある奴だと思ってた。若いのに義理堅く、粗野だが責任感もある。デカい山だった、明慶の『エデン事件』は、あいつが始めて『親離れ』して解決した事件だと、周囲でも専らの評判だ」


 不審な様子のジノンを無視して、ヒチョルは続ける。


「『狂犬』が入庁以来、それこそ金魚のフンみたいにくっついていた『親』が、事件の最中、取調べ中に監獄の中で薬中の学生に刺された。身動きが取れなくなり一線から退いた『親』に変わって、明慶に関する一連の事件は、『狂犬』一人で追うようになったんだ。そう仕向けたのは、『親』の方だ」

「……何を……何を言ってるんですか? まさか、あの毛髪は……」

「そう。ソン・ドンファ警査のものだ」


 震えるジノンの問いに、一切の迷いなくヒチョルは言い放った。


「なぜ?! なぜ、ホン・サンギョ警査の遺体から、ソン警査の血痕が?!」


 パニックを起こしかけているジノンを、ヒチョルはあの冷たく湿った目で見据えたまま呟いた。


「覚えておくんだな坊や。怪しくない奴が、一番怪しいのさ」





 タイヤがアスファルトを擦る凶暴な音を立てて、車が停止する。

 シートベルトを締めていても、ナビの華奢な肩は反動で大きく前にバウンドした。


 バンッ――


 乱暴に運転席から降りたミンホは、無言でフロントガラスの前を通り抜け、ナビの座る助手席のドアを開けた。


「降りて」


 短く命令するようにそう呟くミンホに、ナビは反論するのも忘れて、言われるまま、もたもたとシートベルトを外して車から降りた。

 ミンホは背を向けて、無言でナビに着いて来くるよう促す。

 今更逃げるところもないので、ナビは仕方なく彼の後に素直に着き従う。

 辺りを見回しても、ナビには全く見覚えのない景色で、ここがどこなのか見当もつかない。

 ミンホは先ほどから一言も口をきかないまま、見知らぬマンションのロビーへと入っていく。

 エントランスのオートロックキーを長い指で操作し始めたミンホに、ナビは堪らず声をかけた。


「どこだよ、ここ?」


 ミンホはナビを振り返ることなく、キー操作を続けながら言った。


「僕らの家です」

「え?!」


 突拍子もないミンホの言葉にナビが目を丸くするのと同時に、さっきまで画面をいじっていたミンホの手が突然伸びてきて、ナビの手首を捕まえた。


「ちょっ……おいっ!」


 グンッと力を込めて引っ張られ、そのまま狭いエレベーターの箱の中に押し込められる。

 ミンホはナビを階層ボタンと自分の腕の中に閉じ込めたまま、ナビの頭越しに『13階』のボタンを押した。


「……何なんだよ、これ。ふざけてるの? 僕らの家って……」


 気まずさに思わず声を荒げるナビに、ミンホは低い声のまま答える。


「ふざけてませんよ。僕らの家です。お金が足りなくて、まだ仮契約の状態だけど」


 事態が飲み込めていないナビに、ミンホは噛んで含めるように説明する。


「ここを一目見た瞬間、あなたが気に入ると思ったんです。そしたら、我慢できなくて……内緒で借りたんです。部屋も飾って……時期が来たら、あなたを驚かせようと思った」


 遠慮がちな鐘の音を響かせて、二人を閉じ込めていた狭い箱が『13階』に着いたことを知らせる。

 ミンホは再びナビの手首を掴むと、沈黙するように並んだ黒いドアの前をいくつも通り抜けて、一番奥の部屋にナビごと自分の身体を滑らせた。


 パタン――


 黒いドアは控えめな音を立てて、二人の姿をフロアから消し去った。

 ナビはミンホの肩越しに、暗い室内に目を凝らす。

 広々としたワンルームには、大きく南向きに開かれた窓があり、眼下に広がるソウルの夜景が放つネオンの明かりが、淡く部屋の様子を照らし出していた。


 部屋の隅には、大きなベッドが一つ。

 それが、この部屋にあるものの全てだった。




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