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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第6章【許されるなら】
168/219

6-15


 ポケットの中にねじ込んだ汚れた紙を取り出し、ミンホは灰色に煙る街並みを、透明色の傘越しに見回した。

 染みの浮いた紙に記された番地は、確かにここで間違いないはずだった。

 目当ての建物は案外すぐに見つかった。

  ペンキの剥げたトタン屋根は朽ちかけて見えたが、曇った窓ガラス越しに見える住人の干す洗濯物の影が、まだこのアパートが廃墟ではないことを教えていた。

 錆びの浮いた階段を踏み抜かないように注意しながら、ミンホは二階へ上がり、滲んだマジックで203号室と書かれた一番西端の部屋の前に立った。


  割れたガラス窓の向こうに、薄暗くガランとした室内が覗く。

 部屋の隅に張られた蜘蛛の巣には、埃がダマになって引っかかっていた。

 開くとは思わずノブを回せば、呆気ないほど簡単にドアは開いた。鍵はとうの昔に壊れていたようだ。


 バサッと音を立てるように、何年ぶりかの外気を取り込んだ室内の埃が舞い上がる。ミンホはシャツの袖で鼻と口を覆い、激しく咳き込んだ。

 視界を塞ぐ埃がようやく静まる頃、ミンホの目の前に灰色の部屋が現れた。

 二間続きの奥の部屋には、この部屋にただ一つだけの窓があり、そこから西側の道路を見下ろせた。

窓に寄りかかりながら、ミンホは部屋の中を振り返る。


 そこには何もなかった。


 かつての主を偲ばせる生活の香りも、思い出さえも。

 何もかも虚しく寒い、空っぽの部屋だった。

 乾いた部屋の中には、同じように乾いた肌を持つ男。

 組み敷かれる、細枝のような痩せぎすの少年。

 男の首に手を回す少年のイメージが浮かんだ途端、ミンホは堪らずまた嘔吐しそうになった。


 埃を掻き分けながら、急いで墓場のようなこの部屋を飛び出す。

 錆びた外階段を転げるように降りて、道路へ出て膝に手をつき、雨の湿った空気を肺いっぱいに吸い込む。

 胸のムカつきはほんの少し収まった。

 ミンホは呼吸を整えてから、もう一度アパートを振り返った。

 胸の高さほどの塀の上には、先ほど飛び出して来た203号室の割れた窓が覗いている。

 その時ふと、ミンホはある違和感に気づいた。

 自分は、以前にもこの光景を見たことがあるのではないか。

 ミンホは身体を起こして、先ほど傘越しに見ていた街に再度視線を走らせる。

 周囲の景色が一斉に、ものすごい速度でグルグルと回り出した。


「……ここ……は……」


 バランスを崩して道路に膝を着いた瞬間、その低い目線での景色を確認した時初めて、ミンホの記憶の糸が繋がった。


 自分はかつて確かに、この道を歩いたことがある。

 ミンホが中学三年生の時、父と母、妹たちと暮らしていた警察官の公務員住宅が、老朽化の影響で建替えになった。

 公舎が完成して移り住むまでの間、割り当てられた仮設住宅が、ここから歩いて五分ほどの距離にある市の共有地に建っていた。

 元居た公舎は二駅先の隣町にあり、家の近所の進学塾に通っていたミンホは、仮設住宅にいる間、毎日この道を歩いて駅に向かっていた。


「……こんなに、近くにいたなんて……」


 9年前――ナビがまだこのアパートに暮らしていた頃、自分も確かにこの街で生活していた。

 ミンホはいつもビニール傘を手に、塾用のデイバックを斜め提げにして歩いていた自分の姿を思い出す。

 

 記憶の中のこの道は、いつも雨に塗れていた。

 灰色に煙る、色のない街――

 つまらなそうに水溜りを蹴り上げながら歩く、まだナビを知る前の幼い自分。


 あの窓を見上げていれば、その頃のナビに出逢えていたのか。

 彼をもっと早く、救い出すことが出来たのか。

 考えてもどうにもならないことばかりが、頭に浮かんでは消えていく。


 その時、不意に小さな歌声が聞こえてきた。

 すすり泣くような掠れたその声は、どこからか降ってくるようで、ミンホは思わず空を振り仰いだ。

 だが、声はあまりに微か過ぎて、それが本当に外から聞こえてくるものなのか、自分の内から聞こえてくるものなのか、次第に分からなくなってくる。


 ツキン――


 急にこめかみを、刺すような痛みが襲った。

 まるで幻聴のようなその不思議な声に耳を澄ませば澄ますほど、こめかみを襲う痛みは激しくなり、ミンホは頭を振って声を聞くことを諦めた。




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