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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第6章【許されるなら】
167/219

6-14


「……ダメ……あ……ダメ……だ……」

「ナビッ!」


 ジェビンは激しく頭を左右に振り乱しながらうなされるナビの肩を掴んだ。


「ダメ…・・・やめ……て」

「ナビヤッ! しっかりしろ。夢だから、全部夢だからなっ!」


 ジェビンは寝汗で湿ったナビの身体をタオルケットごと強く抱きしめた。ジェビンの腕の中で、ナビは啜り泣くような呼吸を漏らし、身体を硬直させた。



 暗がりの中で、覆いかぶさるサンウの身体からは、嗅ぎ慣れた、湿った土とヤニと雨の匂いがした。

 安アパートのトタン屋根を叩く単調な雨の音を聞いていると、いつも現実感が薄れていくのを感じていた。


 今もまるで夢の中にいるようだ。

 これから自分がしようとしていることも。

 これから、自分の身体を侵食しようとしている男の身に起こることも。

 全てに現実感がなく、フワフワと漂うような感覚だった。


 だがその中でも、頭の芯は妙に冷え切っていた。

 どこか冷静に、もう一人の自分が、男に組み敷かれる自分を他人事のように見つめている。

 サンウに圧しかかられた自分は、躊躇しながらも彼の首に手を回す。


「……あ……待って」


 いつもの行為に入る前、ポケットを探るサンウの手を下からやんわりと掴む。


「……いらない」

(……坊や、証拠を残すんだ)


 サンウの熱い手とは対照的な、冷たい声が頭の中でナビに指示を出す。

 サンウの手に握られた、ゴムの入った小さな四方形のパッケージが、ハラリと二人の身体の間に落ちる。


「どうした?」


 サンウの方が怪訝な顔で、組み敷かれたままのナビを覗き込む。


「何でもないよ」


 上手く笑えているだろうか。

 これ以上サンウの顔を見ていたら、何もかも見透かされそうで、ナビは彼の首にかけた手に力を込めて、自分の骨ばった胸に引き寄せた。


「……そのまま、来て」


(……父さんが寝たら、合図を……)


 



「……何を? ヒョンに何をやらせたと?」


 ヒチョルの話が終わる頃、ミンホはカラカラに乾いて張り付いた喉の奥から、血を吐くような声を絞り出した。


「坊やの協力で、サンウの身柄を捕らえられた」

「……協力……だと?!」


 震えるミンホの声とは対照的に、ヒチョルは相変わらず、一切の温度を感じさせない冷たい声で、淡々と言葉を紡いだ。


「コトが終わった後、奴が寝ている隙に、坊やの歌が警官たちを招き入れる合図だった」


 ミンホの鼓動が、異常な速度で打ち始める。

 やがてそれは、熱く、何が何だか分からないほどに血がのぼった頭にあっという間に駆け上がり、大音量の耳鳴りへと姿を変える。


「証拠は、坊やの身体に残ってた」


 ヒチョルのその一言で、ミンホの足場がグラリと揺れた。


「……ウ……グエェェッッ」


 奈落の底に落ちていくような感覚と同時に、腹の底から絞り上げられるような吐き気に襲われ、ミンホはその場にうずくまり、激しく嘔吐した。

 指の隙間から溢れた吐しゃ物が、宿直室の冷たい床を汚していく。

 足元まで侵食したそれが革靴を汚しても、ヒチョルはその場を動かずに、吐き続けるミンホを黙って見下ろしている。


「あなたたちは、何てことをっ! ヒョンに……まだ、たった16歳の子どもに……何てことをっ!!」


 吐きながら、涙で顔をグチャグチャにしたミンホが叫ぶ。


「悪魔っ!! 本当の犯罪者は、あなたたちの方だっ!!」


 ヒチョルはそんなミンホの叫びを聞きながら、静かに言った。


「保護した坊やは、すぐに入院先の病院から姿を消した」


 ヒチョルは机の上に広げていた、ミンホが調べた9年前の明慶大学教授刺殺事件の資料を手に取った。

 斜めに目を通し、未だ背を丸めて苦しげに胃液を吐き続けるミンホに視線を移す。


「直視するのが辛かったら、目を逸らせばいい。簡単なことだ。坊やより惨い事件にあった該者だって、吐いて捨てるほどいるんだ」


 だがな――そう言葉を区切ったヒチョルと、顔を上げたミンホの潤んだ視線がぶつかる。


「坊やは、お前さんがそうやって、堪らず吐かずにいられないよう人生を歩いて来た子だ。好むと好まざるとに関らず、な」


 ヒチョルは手にした資料を、ミンホがうずくまった床の上に放った。

 濡れた床の上で、それらはミンホを哀れむかのように白く広がり、床を覆った。

 ヒチョルはその様子を一瞥すると、キュッとゴムの床を踏みしめて踵を返した。


 カラカラカラ……


 乾いた音を立てて、宿直室のドアが閉まる。

 一人残された床の上で、ミンホは這いつくばるようにして、目の前の白を掻き集めた。

 床を汚す、自分が吐き出した吸えた匂いのする吐しゃ物や涙もろとも、その目にまぶしい白い紙を掻き抱いた。

 ナビの歩んできた凄惨な過去ごと抱きしめて、自分の胸の中で粉々に潰して消してしまえたら……そんな思いを込めて、ミンホは汚れた紙を抱いたまま、いつまでも咆哮するように泣き続けた。





 ナビはベッドの上に身体を起こし、雑然とした部屋の中に視線をさ迷わせていた。

 眼が覚めた途端、寝汗に塗れたパジャマをジェビンに有無を言わさず剥ぎ取られたため、今は裸の身体にシーツを巻きつけて膝を抱えている。


(……サンウはもう、長くない)


 雨の中、ゴツリと後頭部に当たった冷たい金属の感触。

 身体が震えるのは、打ちつける雨のせいだけではなかった。


(あいつのものに、なってやってくれ。元々あんたは、あいつのものだっただろ?)


 ナビは膝を抱える腕に力を込める。

 ギュッと身体を小さくして、シーツの間に鼻先を埋める。

 そうやって隠れても、シーツが自分の身を守ってくれる訳ではない。

 望むように、消えて無くなってしまえる訳ではない。

 あの古いアパートで聞いていた雨の音を思い出す。

 目覚めると、こうしてシーツに包まって、一人でいることが多かった。

 隣りの恐怖と温もりの対象はいつの間にか消えていて、冷え切ったベッドに体温を奪われ、その冷たさで目を覚ますのだ。


 無意識に目を凝らして男の姿を探すと、彼はいつもアパートの窓を開け放して、桟に両肘をついて、小さな蛍のような煙草の火を燻らせていた。

 痩せた背中を見せて呆けたように煙草を吸う彼を見ていると、ナビはいつも訳も無く泣きたくなった。

 その背中を押して窓から突き落としたいのか、縋りつきたいのか、自分でも分からなかった。


 その時不意に、ヒヤリと湿った風が頬をなぶり、ナビは我に返った。

 顔を上げれば、キャンピングカーのドアの陰にオーサーの背中が見えた。

 彼はドアに背中を預けて、煙草を咥えている。

 ふーっと小さく吐き出す白い煙が、雨の間を縫って小さくたなびきながら空に上っていく。


「先生も喘息なんだよね?」


 ポツリと呟いたナビの小さな声に、オーサーが振り向いた。


「……『も』?」


 口元に相変わらずの、悪戯っ子のような彼ならではの柔らかい微笑を称えて、ナビに向かって目を細める。


「……バカみたい。煙草はゆるやかな自殺って言うの、知らないの?」


 オーサーの長い指の間に挟まれた煙草の火が、小さく明滅する。


「肺真っ黒にして、死にたい?」


 オーサーはふっと微笑んで、煙草を雨の中に投げ捨てた。


「ナビが嫌いなら、止めるよ」

「とか言って、止められないくせに」

「本当だよ。キスの後味も悪いしね」

「誰が先生とキスするって言った?」


 ナビは口を尖らせ、シーツに埋まった自分の膝に鼻先を押し付けた。


「……だから、言ったのに」


 くぐもった小さなナビの呟きを、オーサーは大切に拾い上げる。


「ナビ?」

「……キライ。煙草も、煙草を吸う先生も……大嫌いだよ」


 オーサーは静かに、キャンピングカーの中に上がってきた。

 ナビが膝を抱えるベッドまで歩いてきて、腰をかける。


「ゴメンね、ナビ……」


 オーサーの優しい大きな手が、シーツに顔を埋めるナビの髪を撫でる。

 彼の身体から立ち昇る雨と煙草の匂いが目に染みて、泣きたくないのに涙が零れる。


「ごめんね……」


地上に落ちる雨粒のように、シーツに次々に小さな染みを作るナビの涙を、オーサーの指は優しく受け止めた。




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