6-13
「ヨンチョルは、そこまで手を汚してくれた学長に対して、何か見返りを差し出さなければならなくなった。その頃、一番嗅ぎ付けて欲しくない相手、学長の対立候補の若い教授が、院生の女の死に疑問を抱き始めていた。奴は、元教え子でもある、明慶を無理やり追い出された若い医師たちに近づいて、ヨンチョルと学長の関係を暴こうとしていたんだ。そこでヨンチョルは思い当たる。学長と自分の行く道の前に立ちふさがる、その教授を消し去ることをな」
「対立候補は、酔ったサンウとの喧嘩に巻き込まれて、刺殺されたんじゃないんですか?」
ミンホが思わずヒチョルに尋ねる。
名門の呼び声高い明慶大と警察内部を巻き込んだ大きな陰謀の中、教授が刺殺された事件は、随分突発的に感じられた。
ヒチョルはミンホの言いたいことを察して、頷いた。
「そうだ。教授はサンウに殺された。酒の席のつまらない諍いで。誰もがそう信じて疑わなかった。酔って口論になり、教授を刺して逃げた街のチンピラと、警察幹部の男の繋がりなど誰も想像しない」
「刺して逃げた? サンウが捕まったのは事件の後なんですか?」
「そうだ。別件でしょっ引いて、教授殺しを吐かせた」
「……ヨンチョルがサンウに金で殺人を依頼したと?」
「そんな可愛いモンじゃない」
ミンホの言葉に、ヒチョルは薄く笑った。
「サンウは、ヨンチョルの絶縁した弟だ」
「っな?!」
ミンホが目を見開くのを見て、ヒチョルは薄い笑みを浮かべて言葉を続ける。
「明慶大の女子院生死亡事件と教授刺殺事件。二つがどうしても気になって、俺は一人で追いかけた。逃げたチンピラは捕まらず、捜査班も早々に解散された後もずっとな。どうしてそんなにこの事件に執着したのか分からない。俺の長年の刑事の勘が、この事件を埋もれさせることを拒んだんだ。サンウは絶縁されたと言っても、元々パク家の戸籍に入ってた訳じゃない。奴の母親は、当時の警視庁総監の情婦で、奴はまぎれもない妾腹の息子だったが、認知されるどころか、出生届すら出されていなかった。パク家とは何の関係もない“存在しない”子どもとしてな。母親が死んでから、12歳で引き取られパク家で暮らしはしているが、入籍する前にヨンチョルとサンウの父親は死に、ヨンチョルは頑なにサンウの入籍を拒んだから、奴ら二人の関係を証拠づけるものは何もなかった。それどころか、サンウは中学と中退した高校の学籍情報さえ抹消されていた。まるで、影のような男だよ。生きてそこに存在していた証がない。だからこそ自由に動き回れたんだ。ヨンチョルの影としてな。苦労したよ。チンピラのパク・サンウの身元を、一人で徹底的に洗った」
ミンホは、ヒチョルの『影のような男』という言葉に、サンウの枯れ枝のような擦り切れ荒みきった風貌を思い出し、思わず背筋が寒くなった。
そこにいるのに、存在していないことになっている男。
彼の歩んできた人生は、ミンホには想像すらできないものだった。
「サンウの身元を洗っていく内に、意外なところから糸口が見つかった。丁度その頃、福祉センターに虐待通報が入ったんだ。父子家庭のようだが、毎晩父親の激しく怒鳴る声と子どもの悲鳴が聞こえる。息子は高校に上がる年だが、学校にも通わせていないようだとな。驚いたよ。どうやらその父親というのがパク・サンウらしい。奴と息子……その線で調べて行った時、ある事件を見つけた。今から十九年前の小さな、誰も気に留めないような事件だ」
「……十九年前?」
「安アパートで、女が一人自殺した。自分の胸にナイフを突き立ててな。近所の住人の通報を受けて警察が駆けつけた時には、辺り一面血の海だった。その中で、6歳になる女の一人息子が一部始終を見ていた。福祉センターの職員も駆けつけてその息子を保護しようとした時、死んだ女の情夫が現れた」
ミンホは異様なくらいに心臓が早鐘を打つのを感じていた。
嫌な予感に自然に脂汗が滲み出てくる。
「息子を保護しようとした途端、そいつは父親だと名乗ってな。保護者の許可無く息子を連れて行くことは許さないと言い張るんだ。父親だという証拠もないのに『はい、そうですか』と引き下がる訳にもいかない。とにかく一時保護するからと言ったら、母親を亡くして気が動転してるから、少し二人だけで話をさせろというんだ。子どものことを思って、アパートの外に出したのが間違いだった。男はそのまま、息子を連れて行方をくらませた。父親なんて真っ赤な嘘だ。男には戸籍すらなく、女と婚姻関係も結べていなかったんだから」
「まさか、それが……」
もう既に答えの出ている問いを、それでもミンホは乾いた声で尋ねる。
「そうだ。サンウと……死んだ女の息子、シン・ハヌル――今のお前らが呼ぶところの、ユン・ナビだ」
ミンホは足元からガラガラと崩れ落ちていくような感覚に襲われた。
ナビの過去――知りたい、守りたいと思い続けてきた彼のただ一人の愛する人の過去と、今真正面から向き合っている。
「19年前の事件とサンウが繋がった時、俺には一筋の光明が見えた気がした。息子に対する虐待容疑でしょっ引いて、教授刺殺を吐かせる。福祉センターの職員を使って、息子に近づかせた。6歳の頃の彼の顔はとうに忘れていたが、喫茶店に呼び出した時の様子ですぐにピンと来た。痩せぎすで、大人の男に怯えきってた。彼が何をされてるか、その時点で検討はついていた」
「検討?」
ミンホの右目が不審に歪む。
ヒチョルの口調から、不吉なものを感じ取っていた。
「……お前さんは、テレビや映画や小説の中の世界のことだけと思うのか?」
「……何を……」
ヒチョルは答える代わりに、ジッとミンホを見据えた。
その冷たく湿った爬虫類を連想させる目に、ミンホの身体は縛られたように動けなくなっていた。
*
(お父さんが何をしたか、君は知ってるんじゃないか?)
ヒチョルはナビの手首を押さえつけたまま低い声で尋ねる。
少し力を込めれば折れてしまいそうなか細い手だ。16歳の少年にしては幼すぎる貧弱な体躯。
一目で、栄養失調スレスレの状態であることが分かる。
(……自由に、なりたくないのか?)
まるで脅すような調子で、誘惑の言葉を吐く。
(お父さんも随分、その道のプロと渡り合って来たようだね。今回の仕事では、分不相応な金を手に入れた筈だ。追われるよ……捕まったら、お父さんも命は無いかもしれない)
ビクッと押さえつけていたナビの手が震える。
最後の一押しを確信し、ヒチョルは彼にしてはこれ以上ないほどの甘い声で囁いた。
(君が自由になることが、お父さんを助けることになるんだよ)
*
「俺は息子に吹き込んだ。虐待の現場を押さえたかった」
ヒチョルは冷たいままの眼差しをミンホに注いだまま、淡々と言葉を紡ぐ。
「『現場』を押さえる必要があった。でなきゃ、現行犯でしょっ引く理由がなかったからな」
*
(ところで、坊や。いや、お譲ちゃんと呼んだ方がいいかな?)
押さえ着けたナビの手首を、指が白くなるほど強く握りこんで、ヒチョルはナビの目を冷たく見据えた。
(気付かないと思ったかい? 刑事の目を、甘く見ちゃいけないよ)
ガタガタッと椅子を鳴らして、ヒチョルから逃れようとするナビを拘束したまま、ヒチョルは更に続ける。
(女の子の印は、まだ――かい? ああ、意味も分からないのか)
児童福祉士の女がヒチョルのその問いかけに何か言おうと口を開きかけたが、怯え、呼吸も荒く、パニック寸前になっているナビを見て口を閉ざした。
(気にしなくていい。もっとも、そんな栄養状態じゃ、まともな印が来る筈もないだろうがね。だがそれは、君にとっては不幸中の幸いだよ。無論、僕らにとってもね)
静かに、だが不気味なヒチョルの瞳の色は、次第に暗い光を強めてゆく。
(いいかい、坊や? 合図を決めよう)
その瞳にあてられたように、ナビはもう一歩も動けない。
(お父さんが寝たら……)
*