6-12
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ノソリ……そんな不気味な音でも立てそうな様子で、男はナビの前に立っていた。
怯えて、思わず椅子の上で身体を逃がそうとするナビに構わず、男はナビの脇を通り抜けて、児童福祉士だと言う女の隣りの席に腰を下ろした。
「この人も同じセンターの職員だから、気にしないで。あなたの味方よ」
女は取り繕うようにそう言うが、鋭い目線と男が背負う陰鬱な空気は、とても福祉センターの職員には見えなかった。
「好きなものを頼むといい。甘いものは好きか?」
男がボソボソと低い声でナビにそう言うと、メニューを開いて突き出した。
怯えきったナビはメニューどころではなかったが、早く選ばないともっと恐ろしいことになるかもしれないと思い、一番真っ先に目についたものを指差した。
女がナビの指差したチョコレートパフェを店員に注文する。
ほどなくして定員が、ナビのパフェと、男と女用のアイスコーヒーそれぞれを持ってくるまで、テーブルを挟んだ三人の間には気まずい沈黙が漂っていた。
「さあ、食べなさい。遠慮するな」
男にまるで脅されるようにして、ナビは目の前にうず高く積みあがっているチョコレートパフェのアイスの中にスプーンを突っ込んだ。
遠慮がちに甘く冷たいそれを口に運ぶが、何年ぶりかのご馳走も、舌の上で味わう余裕はなかった。
「……ところで」
しばらくナビの様子を観察していた男が、唐突に口を開いた。
「君のお父さんに、最近変わった様子はないか?」
ナビの手がビクリッと止まる。男は気にせず続けた。
「帰りが遅くなったとか、急に羽振りが良くなってきたとか」
(デカイ仕事当てたんだ。今は一つしか買えないけど、すぐにもう一つも買ってやるから)
不意に、唐突にナビの耳に穴を開け、無理やりピアスを嵌め込んだあの時のサンウの姿が脳裏に浮かんだ。
(だって、早くお前が着けてるところ、見たかったんだもんよ)
ピアスにこだわり、子どものように笑うサンウ。
「いいピアスだね。ダイヤだろ? 本物だ」
その時、ナビの心を読んだように、男が呟いた。
左耳に注がれる視線には、全てを見透かすかのように、温かさのかけらもなかった。
ナビが思わずガタッと音を立てて椅子から立ち上がると、男の、視線と変わらない冷たく湿った手が追いかけてきて、グッと力を込めてナビの手首を押さえつけた。
「……っ!」
抵抗も出来ず固まるナビの前で、男はナビの手首を拘束したまま、汗ばんだシャツの胸ポケットに手を入れた。
「……自己紹介が遅れたね。私は、ソウル市警のノ・ヒチョル警査だ。お父さんのことで、君に話がある」
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「人目の無いところと言って、思いつくのがここしかないとは……」
ヒチョルは苦笑して、場所を移した宿直室でミンホのためにポットのコーヒーを注いでいた。
「どこから知りたい? いや……どこまで知りたんだ。お前さんは」
「全部ですっ! 最初から全部、教えてください」
勢い込むミンホを落ち着かせるためか、ヒチョルはわざとノロノロとコーヒーを入れ、ミンホの向かいに腰を下ろした。
「警察行政学科がある一般大学の中でも、明慶大が多くの警察幹部の大学OBを抱えているのは知ってるな?」
ミンホが神妙に頷く。ナビと潜入捜査までした『エデン』事件は、ついこの前起こったことだ。
「息子が逮捕され辞任目前だが、依然として現学長の警察関係者に対する影響力は大きい。9年前はもっとそれが顕著でな、コネも金も他の警察関係学科のある大学とは比べ物にならない力を持っていた。学長自身が、元警察幹部出身だったことも影響が大きいな。その多大な力に目をつけたのが、当時最年少で次期治安正監の最有力候補に挙がっていた、パク・ヨンチョルだ。若手のやり手幹部だったから、奴にも元々黒い金の噂はあった」
ヒチョルはコーヒーをズズッと音を立てて啜りながら、昔を思い出すように干からびた指先でこめかみを二三度擦った。
「ヨンチョルは、明慶大学学内の学生ネットワークに、警察で押収した薬を流す、極秘の密売ルートを確立させて、自分が治安正監になるための資金繰りに当てようとしたんだ。賄賂やその他諸々のね。学長にはそのことの黙認と協力を依頼した。勿論、タダというわけじゃない。密売で得た金の半分は学長の懐へ入る手筈になっていた」
噂に聞く汚職の実態の凄まじさに、ミンホは言葉を失っていた。
「だが、ここまでなら規模はどうあれ、よくあることさ。だが、さすがのヨンチョルにも、予期しないことが起こった」
コーヒーカップを置いて、ヒチョルがミンホに顔を寄せる。据えたような口臭とコーヒーの匂いが入り混じって、ミンホは思わず顔をしかめた。
「学生の密売ルートで順調に金を捻出していた時、当時大学院生だった女生徒が一人死ぬ。それが、ヨンチョルの愛人だった女だ。死因は勿論、自分のパトロンが広めた薬の使いすぎだ」
「それで、ことが明るみに?」
「出ていたら、今頃記録に残っているだろう」
ヒチョルは皮肉気に笑う。
「それが、『無かったこと』になっている9年前の明慶大学の事件だ」
(データに残るはずがないよ。『無かったこと』になってる事件なんだから)
『ペニー・レイン』で、薬物中毒の学生のクスリ抜きをしていたオーサーが、謎かけのように語っていた言葉を不意に思い出す。
「俺はその時、鑑識にいた。漢江から上がった女の遺体には、薬物反応が綺麗に消されていたよ」
「……消されていた?」
眉を潜めるミンホに、ヒチョルはゾッとするような声で告げた。
「遺体を『加工』したのさ。明慶大学内部でな」
(そんなの簡単だよ。この俺自身が、隠匿に一枚噛んだ人間だから)
オーサーの言葉が、追いかけるようにミンホの脳裏を駆け巡る。
「学内一丸となって、女の死と薬物ルートの存在を揉み消しにかかったんだ。バレれば、ヨンチョルも治安正監どころじゃない。首が飛ぶ。それに、学長選挙も近づいていた。対立候補に嗅ぎ付けられれば、ヨンチョルも学長も共倒れになる。言わば、一蓮托生の間柄だからな。『加工』に加わった大学関係者はことごとく金を握らせ黙らせ、それに応じない奴はありもしない医療ミスやら汚職やらを押し付けて、大学から追い出した。優秀な若い医者もいたらしいが、惜しいことだ」
ヨンチョルの発言で、ミンホはオーサーが医師免許を持っていないことに思い至った。
9年前の事件。
隠匿に一枚噛んだ人間。
医師免許を剥奪された、モグリの医者。
急速に繋がり始めた糸に、ミンホは軽い眩暈を覚えながら、ヒチョルの話の続きを聞く。