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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第6章【許されるなら】
164/219

6-11

(今のあいつを愛してやれ)


 先ほどのチョルスの声が、耳の奥で鳴り響く。


「……分かっています」


 ミンホは無人の資料室の中で、誰にともなく声に出して呟いた。


「今のあの人を救いたいから、過去に怯えず生きて欲しいから……だから、僕は」


 過去も現在も含めて、あの人の全てを愛したいんだ。

 ミンホはグッと拳を握り閉めると、セーブ状態に入ったパソコンのキーを再び叩いた。

 膨大な量のデータベースから、再び目星をつけた容疑者たちの顔と名前、罪状を、画面をスクロールしながら追いかける。


 カチカチ、カチカチ。


 キーを叩く乾いた音がそれから数時間あまり続き、窓の外が白み始める頃、不意にその音が止んだ。


「……あった」


 掠れた声で思わずそう呟いたミンホの目に、古い事件の詳細が映し出される。

 最初はただの文字の洪水のように感じられていたそこに記録された内容を、次第に疲労した脳が把握するようになると、ミンホの見開かれた目が大きく揺れた。


「……これは……」


 それきり、言葉を紡げなくなる。

ミンホは呼吸すら忘れて、金縛りにあったように画面の前から動けなくなっていた。





「……っふ……ぅぅぅ」

「ナビ、ナビヤ……」


 苦しげに頭を左右に振りながらうなされるナビの額に浮かぶ汗を、ジェビンは手にしたタオルで拭いてやりながら何度も名前を呼んだ。

 左手を布団の中に入れ、しっとりと汗ばんだ小さなナビの手を握ってやると、ナビの眉間に刻まれた皺がほんの少し浅くなった。


「ミンホが、来たんだぞ。お前のこと心配して」


 ジェビンはうなされ続けるナビに構わず語りかける。


「早く目を覚まして、連絡してやれよ」


 汗で額に張り付いた、ナビの細い黒髪をかきあげてから、ジェビンはナビを守るように、その体をタオルケットごと抱きしめてやった。





 遠い記憶――。

 これは夢だと分かっている。

 それでも、目の前に広がる景色は、少しも色褪せずあの日のことを鮮明に蘇らせる。

 何度でも、あの日あの場所に立っていた自分を追体験する。


(……何かあったら、頼って。いつでも、連絡待ってるわ)


 母が亡くなった時、自分とサンウを引き離そうと現れた児童福祉士の女。

 16歳になった今、再びその女が突然目の前に現れた。

 ナビのポケットにねじ込まれたその女が手渡した小さな紙きれは、すぐにサンウの目の届かないゴミ箱に打ち捨てられる筈だった。


 それなのに――


 意識が飛ぶまで殴られる。

 それはもうナビの日常で、その日も派手にやられた。

 原因なんて些細なことで、いちいち記憶してはいない。

 きっと、ナビの帰りが遅かったとか、そんなことだった。

 青い月明かりの下で、ナビは目を覚ました。

 殴られた目が腫れ上がり、視界は半分以下に狭められていた。薄暗い部屋の中に目を凝らすと、サンウはこちらに向けた背を丸めて眠っていた。

 彼を起こさないように壁に後ろ手をついてズルズルと立ち上がる。


「……ッ」


 腰を襲う鈍痛と、下着の中のヌルリとした不快な湿り気で、意識を飛ばした後の自分に何が起こったのか理解する。

 それすらも、もう日常で、涙さえでない自分に可笑しくもないのに笑いが込み上げてきた。

 ネチャッと音を変えた下着の中の惨状に思わず手を伸ばしかけた時、ナビの手に不意に、ポケットにねじ込んだ紙切れの硬質な感触が伝わってきた。


「……」


 言葉を無くしたまま、そっとポケットの中に指を滑らせる。


(あなたは、選べるのよ。自分の人生を、自分で選べるの。もう、選んでいい年だわ)


 昼間の女の声が重なる。

 その声に導かれるように、ナビはそっと、音を立てないようにサンウと二人きりのアパートの扉を開け外へ向かう。

 階段を下りたその先には、古びた電話ボックスが、青い月の光を受けて静かにナビを待っていた。

 まるで随分昔から、彼がそこを訪れてくれるのを待っていたかのように。

 ナビの喉がコクリと小さく嚥下する。


『ハヌル君? シン・ハヌル君なのね?』


 受話器の向こうの女の声は大きく、届くはずも無いのに、ナビはアパートの中のサンウに聞こえてしまうのではないかと生きた心地がしなかった。


『嬉しいわ。駅前の喫茶店、分かる? そこで詳しい話をしましょう』


 女に言われるまま、ナビは数日後に指定された喫茶店へと向かっていた。

 全てがあの青い夜の夢だったのではないか――

 夜が明けてから、何度もそう思った。

 だが、ナビのポケットの中の小さな紙切れは消えてなくなることはなく、これからナビの進むべき道を指し示してるかのようだった。


「こっちよ、ハヌル君!」


 喫茶店の中は閑散としており、ナビが店の扉を開けた拍子に鳴り響いたドアベルのあまりの音の大きさに、一瞬ビクッと身体をこわばらせ、店の外へ非難しようと踵を返しかけた時、聞きなれた女の声がナビを引き止めた。

 女が手招きするのに合わせて、ナビは恐る恐る店の一番奥の、女がいるテーブルに向かった。


「お父さんには見つからなかった?」


 声を落として尋ねる女に、ナビはコクリと頷く。サンウは朝から出かけていた。


「暑かったでしょう? さあ、そこに座って」


 女に言われるままナビは居心地悪そうに女の向かいの席に座る。

 その時、女はナビの背後を見て、小さく頷いて見せた。

 不審に思って振り返ったナビの目の前に、髪の薄い、影のような不気味な風貌の男が立っていた。





「ノ警査!」


 鑑識室の扉を開けて入ってきたノ・ヒチョルの顔を見た途端、ハ・ジノン警衛は彼に駆け寄った。


「……電話の様子だと、出たんだな? 結果が」


 ヒチョルがそう言うと、ジノンは神妙に頷きながら手にした巻物のように長いデータ結果の紙を広げて見せた。


「ノ警査が持ち込まれた毛髪と、爪に付着した血液のDNAは、99%以上の確率で同一人物の者と見て間違いないでしょう」

「そうか」


 静かに頷くヒチョルは、初めから答えを知っていたかのような落ち着きぶりだった。


「警査……あの毛髪と血痕は一体誰の……」


 その時、先ほどヒチョルが入ってきたばかりの鑑識室の扉が、蹴破られるような勢いで開いた。

 ジノンは慌てて手にしていた鑑識結果の書かれた紙を後ろ手に隠す。


「何だ君は?」


 振り返って鋭い眼を向けたヒチョルの前には、息を切らせたミンホの姿があった。


「ノ・ヒチョル警査っ!」


 ミンホはドカドカと部屋の中に入って来て、ヒチョルの前に立った。


「ハン・ミンホ警衛です。配属初日に『エデン』事件の容疑者学生の取調べをした、ハン・ミンホです」

「捜査課の『狂犬』の新しい相棒だろう? 知っているよ」


 ヒチョルはわざとチョルスの通り名を口にしたが、それには侮蔑ではなく、からかうような親しみが込められていたことに、ミンホは意外な気持ちになる。およそ体温という人間らしさを感じないこの男らしくないと思った。


「君は、私が苦手なんじゃなかったのかね? ずっと、私を避けてた」


 ヒチョルの言葉に、ミンホがグッと詰まる。確かに、薄暗い取調べ室の中で見たこの男は、幽霊のようなナリをしていて、配属間もないミンホは、廊下ですれ違うだけでもゾッとしたものだった。


「教えて欲しいことがあって来ました」


 ミンホは気を取り直してそう告げる。


「パク・サンウのことです」


 その名前に、ヒチョルの薄い眉がピクリと動いた。


「覚えていますよね? 9年前、明慶大学の学長選挙前に対立候補が刺殺された事件、当時の担当捜査官の中にはあなたの名前があった」

「そんな事件があったかな?」


 簡単に乗ってこないヒチョルに、ミンホは食い下がるように言い募った。


「教えてください! あの事件のこと」


ヒチョルは再び血の通わない冷たい表情で、ミンホを見返す。


「なぜ? あんな古い事件のことを、今更お前が知りたがる?」


 ミンホは拳を握り締めてから、低く搾り出すような声で答えた。


「対立候補を酔って刺したチンピラ……彼には血の繋がりのない、一人息子がいた。内縁の妻だった女の連れ子のシン・ハヌルです」


 ミンホはそこで言葉を区切り、それから決意したように顔を上げた。


「……その、シン・ハヌルは……僕の大切な人かもしれない」


 だから教えてください。

 9年前に、一体何があったのか。

 お願いします。


 ミンホはそう言うと、ヒチョルに向かって深々と頭を下げた。




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