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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第6章【許されるなら】
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6-10

「しばらく、旅行にでも行こうかと思うんだ」


 ポツリと零した男の呟きを拾い上げて、妻は目を輝かせた。


「いいわね! 新婚旅行行ってないし」


 妻は満面の笑顔で、夫の太い腕に手を回す。


「お前も一緒に行くつもりか?」


 夫は少し戸惑ったように、腕を絡めてくる妻を見下ろした。


「あら、何よ。一人で行く気だったの?」


 妻はプッと膨れて見せる。


「酷いわね。もう優雅な独身貴族じゃないのよ。どこかへ行くなら、私もチェリンも一緒よ。そう決まってるの」

「分かったよ、奥様」


 男は苦笑して、絡められた妻の手を握った。


「……スンミ」

「何?」

「……ありがとう」


 男は小さな声でそう言うと、そっと妻の手を握る指に力を込めた。





 明かりの消えた資料室で、ミンホは長い背中を丸めて、旧式のデスクトップのパソコンの間に埋もれていた。手許は忙しなくキーを叩き、ほの明るい画面を食い入るように見つめている。

 彼の周囲には、散乱した資料が雑然と広がり、画面から目を離しては資料を繰り、またキーを叩くということを何度と無く繰り返していた。

 あまりに集中していたため、彼は背後に近づく人の気配に全く気づいていなかった。


「こんな夜中に何してる?」


 驚いたミンホが思わず肘で机の上の資料を落としてしまう。

 バサバサッと乾いた音がして、埃だらけの床に書類の山が撒き散らされた。

 足元に散らばってきた資料の一部を拾い上げて、背後に立っていた人物が固い声で尋ねる。


「……何の真似だ?」

「……チョルスヒョン」


 クシャリと資料を握りつぶしたチョルスは、厳しい表情でミンホを見下ろす。


「『ペニー・レイン』へ行ってきたんだろう? 帰るなりこんなところに閉じこもっって、ジェビンに何を聞いてきた? 一体何を嗅ぎ回ってるんだ」

「嗅ぎ回るなんてそんな……」


 チョルスらしくない物言いに、ミンホは一瞬鼻白む表情を見せた。

ミンホがアクセスしていたのは、過去十年の間に様々な容疑で逮捕された者や、指名手配された者のデータベースだった。

チョルスには一目で、ミンホが何を調べているのか分かった。


「止めろ。いくら恋人だからって、知られたくない過去があるかもしれないだろ」

「でも、知らなきゃあの人を守れない! 僕、気づいたんです。本当はあの人のこと、何一つ知らないんだって」

「過去を知らなきゃ愛せないのか?」


 冷たい声でチョルスが問う。


「男同士だろうが、育った環境が違おうが、覚悟して付き合い始めたんじゃなかったのか? お前の覚悟はその程度か。今更相手の過去を気にして、ほじくり返さなきゃ不安になる程度の中途半端な気持ちなら、最初から近づくべきじゃなかったんだっ!」


 強い力で胸倉を掴まれ、椅子に座っていたミンホの身体が宙に浮く。

 ギリギリと締め上げられる苦しさに息を詰めながら、ミンホは自分の首を絞めるチョルスの手を握り返した。


「……チョルスヒョンは……あの……オーナーのことを、言ってるんですね?」


 その途端に、チョルスの手が離れる。

 投げ出された格好のミンホは、勢いよくデスクにぶつかり、資料の山の中に突っ伏しながら激しく咳き込んだ。


「……お前は、知らないから言えるんだ」


 ミンホから目を逸らしたチョルスが、俯きながら苦しげにそう呟いた。


「KATSUSAで起きた事件ですね?」

「お前っ! 何で、それっ……まさか、それも調べたのか?!」


 再び胸倉を掴む勢いで迫ってきたチョルスに、ミンホは両手を挙げて『違う』ということを示した。


「オーサーさんから、以前聞いたことがあるんです。黙っていて、すみませんでした」


 ミンホが素直に謝ると、チョルスは頭を掻き毟りながら、椅子を引いてその上にドカリと腰を下ろした。


「……あいつに、初めて会った時のこと、今でもよく覚えてるよ」


 女以上の、見る者を惑わせるほどの美貌。

 被害者なのにも関らず、入院先の病院で取調べを受けるジェビンに、警官たちさえ好奇の目を隠そうとしなかった。


 男と寝るのは初めてか?

 お前から誘惑したんじゃないのか?

 何か見返りはなかったのか?

 家族を殺されるほどの痴話揉めがあったんじゃないか?

 お前が寝たのは、ヒルトマンだけか?


 吐き気がするような質問を繰り返す上官たちの側で、チョルスは恥ずかしくて堪らなかった。自分が、彼らと同じような人間であると、このこれ以上ないくらいに傷つき打ちのめされているジェビンに思われたくなかった。

 ジェビンの瞳は終始、深い海の底のように暗く沈んで何も映してはいなかった。

 そしてある日突然、ジェビンは姿を消した。


「病院から抜け出したあいつを取り逃がしたこと、すごく後悔した。あいつを自由にしたくなかったんじゃない。その逆だよ。分かるか?」


 チョルスはミンホに問いかけながらも、答えを求めているのではないとミンホには分かっていた。


「人を簡単に殺してしまいそうな目……そこまで追い詰められたあいつの目を覚えていたから。人の立ち位置なんて簡単に入れ替わる。警官になってから、そんな連中を嫌というほど見てきた。俺はあいつを……ジェビンを、犯罪者にだけはしたくなかったんだ」


 ミンホは初めて、チョルスのジェビンに対する、事件関係者という接点以外の深い想いを知る。


「何年も経って別の事件を追ってた時、偶然あいつが店を開いてるのを知った。あのオーサーってモグリの医者や、その他にもヤクザまがいのヤバい奴らがウヨウヨしてるいかがわしい店だったが、それでも正直ホッとしたんだ。あいつは、『こっち側』に踏み止まってくれてたから。あいつさえ、踏み止まってくれるなら、過去を掘り返すのは止めようと思った。今、あいつが笑ってられるなら、それを守ってやりたいと思ったんだ」


 ミンホは赴任してきて始めて『ペニー・レイン』を訪れた時の、チョルスとジェビンの様子を思い出していた。


(――いつか手錠をかけられるなら、俺はチョルスがいいよ)


 そう言って、妖艶に微笑んでいたジェビン。

 表立っては、監視する者、される者。

 しかし二人の間には、見守り、見守られる、彼らにしか分からないそんな関係が確立されていたのだ。

 惑わすような笑みを浮かべながら、それでもジェビンはチョルスが店に現れるとどことなく嬉しそうだった。

 まるで昔馴染みを迎え入れるような、日頃の冷たさすら感じさせる隙のない美貌が、チョルスの前では少しだけ崩れる。それは、ナビに見せる慈愛に満ちた表情とも違っていた。

 この人はこんな表情も出来るのだと、ミンホですら目を奪われたことがあった。それはひとえに、チョルスとジェビンが重ねてきた、二人だけにしか分からない気持ちの交流が成せる技だったのだろう。


「ナビも、今あんなに明るく笑えてる。過去に何があったとしても」


 チョルスは強い視線でミンホの目の奥を見つめる。それは、嘘もごまかしも許さない、ミンホの本心と向かい合おうとするチョルスの気持ちの表れだった。


「今のあいつを愛してやれ」


 チョルスは最後にそう言うと、静かに席を立った。


 パタン……


 背後で資料室のドアが閉まり、チョルスの足音が廊下の向こうへ遠ざかり、やがて聞こえなくなると、ミンホは深く息を吐き出した。




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