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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第6章【許されるなら】
162/219

6-9

何が何だか分からないながらも、この場から早々に立ち去るべきことを理解したドンファは、サンウを引きずるようにして温室の外へと逃げ出した。


「サンウ、あの人は誰?」


 温室から大分遠ざかった頃、ドンファから恐る恐る口を開いた。


「……ヨンチョル兄さん」


 サンウは消え入るような小さな声でそう答えた。


「あの、女の人は?」

「ヨンチョル兄さんの、母さん」


 サンウは先ほど男に殴られて切れた口の端に滲む血を拭いながら、ポツリポツリと話し出した。


「……ミシクさん……ヨンチョル兄さんの母さんは、俺が生まれてからああなったんだ」


 サンウは俯きながら、静かに言葉を選んでいく。


「ミシクさんは、俺の母さんの姉さんなんだって……黒服が言ってるの聞いちゃったんだ。ミシクさんと母さんのお父さんが同じ人なんだって。母さんが俺を産んだのを知ってから、ミシクさんは時間を止めたんだ。だから、ミシクさんの中では、ヒョンチョル兄さんもずっと子どものままなんだ。僕を、兄さんだと思ってる」


 すると、先ほどサンウを殴りつけたあのヨンチョルという少年とサンウは、実の腹違いの兄弟であると同時に、従兄弟になる――

 幼い頭で必死に考えを巡らせても、ドンファにはかける言葉さえ見つからず、ただサンウの背中をそっと擦ってやることしか出来なかった。

 サンウは今にも泣き出しそうな顔をしていたが、実際に涙を流すことはなかった。

 二人は庭の木をよじ登って、サンウの部屋に忍び込んだ。


「坊ちゃん! お夕食の時間ですよ」


 夕飯時、そう言って呼びに来た家政婦に、サンウは「具合が悪い」と嘘をつき、部屋まで夕食を運ばせた。

 早く休むから、と言い訳して部屋の電気を落とした中で、サンウとドンファは二人で一つのベッドに胡坐をかいて、一人分の夕食を分け合って食べた。

 朝から何も食べていなかったので、貪るようにご飯を掻き込むドンファに、サンウは笑って自分の分の夕食も少し多めにドンファにくれてやった。

 これまた一本の歯ブラシを二人でギャーギャー言いながら分け合って使った後、二人は一緒のベッドに入った。


「……帰らなくていいの?」


 ドンファの袖を捕まえながら、サンウが尋ねる。

 暗闇の中で潤むその目には「帰って欲しくない」と書かれていた。

 ドンファはタオルケットを引っ張り上げ、その中に二人、頭ごとすっぽり入る。

 作られた小さな闇の中で、ドンファは答えた。


「帰るよ。お前が、眠ったら」


 サンウの瞳が、安心したように静かに閉じられた。





「……あなた? どうしたの、ボーッとして」


 陽の当たるリビングで、庭で転げまわる娘の姿を目で追っていた男に、キッチンでおやつのマドレーヌ作りに精を出していた妻が声をかける。


「え?」

「チェリンを見てるようで、実は他のことを考えてる。違う?」

「参ったな。何でそんなこと分かるんだ?」


 男が言うと、妻は悪戯っぽく笑って見せた。


「分かるわよ。伊達にあなたの奥さんやってないわ」


 フフフと笑う姿は、結婚して母になった今でも、女学生のような可憐さが漂っている。

 本当にこんな女がとうの立った自分の妻になってくれたことは、今でも奇跡だと思う。


「何を考えていたの?」

「……え? ああ……ちょっと思い出してたんだ。ガキの頃のことを」


 歯切れ悪く答える男に、妻は汚れた手を流しで洗ってから、可愛らしい水玉のエプロンで手を拭きながら男の座るソファーの隣りに腰を下ろした。


「あなたの子どもの頃? 知りたいわ。どんな子どもだったの?」


 妻は目を輝かせながら男の顔を覗き込む。


「何だよ、この前実家に帰った時、俺に内緒でお袋から俺の子どもの頃の写真もらってただろ」


 男がしかめっ面でそう言うと、妻はまたフフフとかわいらしく笑ってから、ポケットから大事そうに古びてセピア色に変色した写真を取り出した。


「小さい頃、こんなにポチャポチャしてたなんて信じられない。高校の入学写真では、すっかりモムチャンな今の体型だものね。ダイエットしたの?」

「いや、中学で喧嘩しすぎて、自然に痩せたんだ」


 男が照れくさそうにそういうと、妻はまた声を漏らして明るく笑った。


「小さい頃は、ちょっとおデブちゃんで、運動が苦手で、泣き虫でって、お義母様が言ってたわよ。いつの間に、こんなに逞しい男になったの?」


 妻はふざけて、男の隆々とした筋肉がついた二の腕に飛び掛る。庭で遊んでいる娘の手前、男は抱きつこうとする妻を赤くなって押しのける。


「何かきっかけがあったのね? 女の子かしら。妬けるわ」

「バカ言うなよ」


 睨みを利かす妻の額を小突きながら、男は心の中で逡巡する。

 そう、きっかけならあった。

 女の子のためではなかったけれど。


 

 十二の年に母を亡くし、当時の警視庁総監であった実の父の家、名門パク家に引き取られた時から、サンウの父親は息子の利発さを見抜いていた。

 正妻の息子であるヨンチョルを差し置いても後継者に――そんな動きがあったことも事実であった。

 それは、夫がよりによって自分の義妹と不貞を犯し、その上子どもまでもうけていたことを知って以後、気が狂い、温室の奥で世間から隠れるように生きる妻を疎ましく思うサンウの父親の、身勝手な心理も手伝っていた。


 本当は彼は、ヨンチョルの母親ではなく、義妹であるサンウの母親と一緒になりたかったが、サンウの母親の母、つまりサンウの祖母は名門の家柄の出ではなく、結婚を反対されたのだと、口さがない家政婦たちが聞きもしないのにサンウに教えてくれることもあった。


 そんな背景もあってか、サンウは父親に溺愛された。

 だが、そんな偏った愛情が注がれるほど、兄であるヨンチョルからの風当たりは強くなった。

 サンウは中学に上がる頃から、成績は下降し、それに伴い急速に素行が悪くなりだした。

 それは、父親の期待にわざと反発しているようでもあった。

 だが、サンウの素行が悪くなった原因が本当は別のところにあることを、ドンファだけは知っていた。


 ちょうど二歳年上の兄ヨンチョルが、父の後を追って警察大学校に入学するという時だった。

 名門の家柄ゆえ、兄には敵も多かった。頭はすこぶる良かったが、ヨンチョルは表立って街の不良たちに勝てる喧嘩の技量があるわけではなかった。

 兄の邪魔者は、人知れず、影でサンウが始末をつけていた。

 下降する成績、期待を裏切る素行。

 それらも全て、「跡継ぎ」であるヨンチョルより目立たないよう、彼の影として必死に生きようとするサンウの覚悟であるとドンファには分かっていた。


 馬鹿なヤツだ――


 お前が、ヨンチョルやヨンチョルの母に負い目を感じる必要なんてないのに。

 母とそっくりな、狂ってしまったあの女のいる温室へ、その後も何度となくサンウが通っていたことをドンファは知っていた。


 あの優しく美しく、哀しい女へ向けて。

 そして、母親を取り上げてしまった兄へ向けて。


 許しを請うように、サンウはヨンチョルの影となって生きる道を選んだ。

 そして、ドンファ自身もまた、そんなサンウの影となり、寄り添うことを決めたのだった。

 元々下町のキングだったサンウが去った後は、街の小競り合いを統制する者がいなくなったために、必然的にドンファがその代わりを務めることになった。

 もう、ノロマのドンファとバカにされる自分のままではいられなかった。

 自ら進んで堕ちていくサンウの後ろを、ドンファはいつでもピタリと張り付いて守ってきた。


 その関係は、警察大学校入学前に、サンウが敵の多かった兄の悪評を流して入学を妨害しようとしていた生徒を呼び出して、半死半生の目に合わせるという傷害事件を起こし、高校を退学させられた後も変わらなかった。


 愛妾の息子に期待をかけていた分だけ、サンウの父親の落胆は激しかった。

 高校退学をきっかけにサンウは半場勘当されるような形で、とうとうパク家を出て行くことになった。


 それからはもう、転げ落ちるような堕落ぶりだったが、同時にサンウは下町で育ったあの頃のように活き活きとしていた。


 やっぱりお前には、あんなお上品な世界は似合わない。

 気取ったってダメだ。

 お前は元々下町の人間なんだから。

 そう悪態をついてやれば、サンウはとても幸せそうに笑った。


 ドンファも、ようやくサンウはいるべき場所に帰って来たのだと思った。

 そこからが、サンウの本当の影としての人生の始まりなどとは、思いもせずに。




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