6-8
コツン……と小石は窓に当たって、家の壁に沿って落下した。
カーテンが揺れる。
ドンファはもう一つ石を拾い上げて、同じところ目掛けて投げた。
コツン……またも小石が窓に当たり、今度は静かに窓が開いた。
そこから突き出た白い顔に向かって、ドンファは声を落として呼びかける。
「サンウッ! ここだ、ここ!」
植え込みから手を突き出して、居場所を示す。
サンウはしばらくキョロキョロと辺りを見回していたが、植え込みから突き出た二本の肉付きのいい腕を見つけると、ヒュッと息を呑んでから身を乗り出した。
「ドンファ?! お前、何でこんなとこに?」
ドンファは満面の笑みで答えながら、腕を大きく振り上げて「降りて来い」というジェスチャーをした。
「待ってろ!」
サンウはすぐに反応して、身を翻して部屋の中に消えた。
しばらくして、庭に下りてきたサンウは、ドンファの隠れる植え込みの中に一緒に身を潜めた。
庭では何人かの黒服たちが巡回しているため、見つかったら事だった。
「よくここが分かったな」
「母さんに聞いたんだ。有名な警視庁総監のパク家だもん。知らないヤツの方が珍しいよ」
ドンファが少し得意そうに鼻の下を擦った。
「だけどこんなに見張りが多いとはな。朝からずっと隠れてたんだけどさ、身動きできなくて疲れちまったよ」
すると、ドンファの言葉に、サンウは何か閃いたというような顔をしてドンファの手首を掴んだ。
「そしたら、秘密の場所に連れてってやるよ。そこなら見つからないから」
サンウは見張りの黒服の動きを植え込みから注意深く伺いながら、ほんの一瞬見張りが目を離した隙をついて立ち上がった。
「走るぞ、ドンファッ!」
そう小さな声で叫ぶと、サンウはドンファの手を掴んだまま一目散に庭を突っ切って走り出した。
「待ってっ! サンウ……もう、走れ……な……い」
息も絶え絶えになってドンファが思わず屈みこんだ時、サンウの足も止まっていた。
久しぶりに見る、頬が蒸気した悪戯っ子特有の表情を浮かべてサンウは目の前を指差した。
「着いたぜ。ここだよ、秘密の場所」
そう言うサンウの前には、ガラス張りの小さな温室があった。
傾きかけた夕暮れ前の日差しを受けて、温室の壁がキラキラと乱反射している。小屋の前には小さな人工の小川が流れ、そこに慎ましやかなオモチャの水車がカラカラと音を立てて回っていた。
「来いよ」
地面に尻餅をついてすっかりへばっていたドンファの腰を叩いて、サンウが立つように促す。
「お、おい! 勝手に入っていいのか?」
温室の扉に手をかけたサンウに、ドンファは思わず声をかける。そこは何だか日常と切り取られた、お伽話に出てくる妖精でも住んでいそうな小屋で、現実世界から迷い込んだ自分たちが簡単に侵入してはいけない世界のように見えた。
「静かにな、ミシクさんが驚いちゃうから」
「……ミシクさん?」
初めて聞く名前に、ドンファが困惑している間に、サンウは温室の扉を開けてしまった。
一瞬、目がくらむようなガラスの反射を受けてドンファが後ずさる。
「ほら、こっち」
サンウが手を差し出して、ドンファの身体を温室の中へと引き入れた。
しばらく目を開けられずにいたドンファが恐る恐る瞼を上げる。
「う……わぁ」
思わず口をポカンと開けて、呆けた様にその光景に見惚れた。
夕時の優しいオレンジ色の太陽の光を集めた室内は、静かな水音とともに何もかもがキラキラと輝き、甘い花の匂いに満ちていた。
やはり、妖精が住む小屋だ。
そうでなければ、こんなに何もかもが美しい筈がない。
ドンファは内心で、昔母が読んでくれた御伽噺を思い出し、一人頷いた。
「来て、ドンファ」
サンウはそんなドンファの気持ちを知ってから知らずか、彼の手首を握ってズンズンと小屋の奥へと歩き出す。
「ちょっ……サンウ!」
ドンファは生まれて始めて感じる美しすぎる物への畏敬の念から、訳も分からず怖くなり、尻込みしながらもサンウに引きづられるように小屋の奥へ進んだ。
「ミシクさん!」
狭いガラスの小屋の中で、変声前のサンウの高い声が響き渡る。
部屋の一番奥では、少し高台になった舞台のような白いウッドデッキの上に籐の椅子が乗っていた。
「友達を連れてきたよ」
浮き立ったサンウの声に答えるように、籐の椅子がゆっくりと回転した。
そこでドンファは、今度こそ息を止めた。
そこに座っていたのは、白いドレスに身を包んだ女だった。
女の肌は白さを通り越して青い静脈が透けて見えるほどで、たっぷりとしたドレスの重みで折れてしまうのではないかと思うくらいの細い腰を椅子に沈めている。
腰まで伸びた女の長い髪は、見事なまでの白髪で、サンルームに散る明るい日の光を浴びて、キラキラと銀色に輝いていた。
「まあ、ヨンチョルのお友達なのね。こっちへいらっしゃい」
女はフワリと微笑んで、その人形のような小さな手で二人を手招きする。
「おい、サンウ……」
ドンファの声を無視して、サンウは女の胸に飛び込み、たっぷりしたドレスの太腿に頬を擦り寄せる。
「いくつになっても赤ちゃんみたいね、ヨンチョルは」
女はそう言いいながら、優しく膝に甘えるサンウの髪をかきあげてやった。
ドンファは、そんな光景を見つめながら、未だに一歩も動けずにいた。
確かに夢のように美しい女ではあるが、全身白で覆われた温室の奥に棲む彼女は、どこか異様で、そんな彼女の膝に無防備に甘えるサンウの姿は、何か見てはいけないものを覗き見ているようで居心地が悪かった。
そして、ドンファがもっと決定的にこの状況に異様さを感じる大きな原因があった。
それは、この温室の女があまりにも似すぎていたせいである。
サンウの亡くなった母親に。
下町でスナック歌手をしていた、若く美しいサンウの母親。
ほんの半年前、突然の事故で呆気なく逝ってしまったサンウの最愛の母親。
目の前でサンウを甘えさせるこの女が本当に生きた人間なのか、ドンファはそんなことを考えて思わず背筋が寒くなった。
「……可愛い、私のヨンチョル」
女が愛しそうに再びサンウの髪を撫でる。
その名を、否定せずに受け入れ幸せそうに目を閉じるサンウ。
「おい、サンウ……」
思わず不安になってドンファがそう呼びかけようとした時、突然バンッという音がして、温室のドアが乱暴に開かれた。
「お前ら、そこで何してるっ!!」
逆光で顔の見えない長い影が、乱暴な足取りで三人のいる温室の奥まで近づいてくる。
徐々に輪郭を現したのは、名門で知られるソウルの中学の制服を着た少年だった。少年はドンファを肩で突き飛ばし、籐の椅子のところまで迷いなく歩いていくと、未だ白い女の膝に甘えるサンウの襟首を掴んで、乱暴に女から引き剥がした。
「兄さん」
「兄さんて呼ぶなっ!」
少年はサンウの頬に遠慮なく平手をお見舞いした。
「サンウッ!」
思わず一歩踏み出したドンファにも、少年は鋭い視線を向ける。
「言ったはずだぞ、ここには近づくなって。二度と同じことやってみろ。本気で殺してやるからな」
少年はサンウの髪を掴んで揺さぶると、乱暴にドンファの足元に華奢なサンウの身体を投げ出した。
「サンウッ! 大丈夫か」
ドンファが慌てて屈みこむ。
「出て行けっ! 三つ数える間に、俺の目の前から消えろ。その太ったヤツも一緒にな」
「……兄さん」
「早く消えろっ!」
サンウの言葉を遮って、少年が叫ぶ。