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サンウは半年に一度黒塗りの車から降りてくる年のいった男を『父さん』と呼んでいた。
『父さん』が現れた後は、子どもにしては大きすぎる金を手に、ドンファたち子分を引き連れて、駄菓子屋で豪遊することも珍しくなかった。
サンウには、妙なカリスマ性があった。
勉強もろくにしないくせに、小学校の成績はいつも上位で、これで真面目にやってさえいれば……と教師たちを嘆かせた。
血は争えない、ドンファの母はよくそう言っていた。
だが二人が十二歳になった年の冬、そんな下町の小さき王様の身に異変が起きた。
サンウの母が、突然この世を去ったのである。
明け方、千鳥足の酔客を介抱しながら店の前の出たところへ、飲酒運転のトラックがアーケードを突破して雪崩れ込んできた。そこにはサンウの母だけでなく、営業を終えたばかりのホステスや客が何人もたむろしていて、トラックはそんな彼らを一人残らず跳ね飛ばした挙句、地下へ続く店の入り口に車体の半分以上をめり込ませてようやく止まった。
サンウの母を始めとする、跳ね飛ばされた人間のほとんどが即死の大惨事であった。
突然一人ぼっちになってしまったサンウの元へ、半年に一度のあの車が現れた。
悲しむ間さえ与えず、下町の貧しい住人たちが寄り集まって、サンウのこれからの身の処し方に思いを巡らせようとしていた矢先の出来事だった。
表情の無い男たちに無理やり黒塗りの車に押し込められたサンウは、そのまま下町から連れ去られた。
幼いドンファには到底納得できなかったが、ドンファの母は、サンウは父親に引き取られて幸せになるのだと息子に言い聞かせた。
警視庁総監の実の父親の元、何一つ不自由のない生活を送るのだと。
一週間、二週間過ぎてもサンウは戻らず、そこでようやくドンファも彼が違う世界の住人になったことを悟った。
金魚のフンのように付いて歩き、同い年ながら頼り切って慕っていた親友との突然の別れは幼いドンファには到底受け入れられるものではなかったが、彼が幸せになるのならそれは仕方のないことだと思うしかなかった。
サンウが去ったことで、幼い彼らなりの下町の勢力図にも変化が訪れた。負けなしのキングが抜けた穴は大きく、歩兵であったドンファたちはそれでも自分たちのテリトリーを死守しなければならなかったので、毎日生傷が耐えなかった。
誰もが下町を去って行った伝説のキングの存在を諦めかけた時、不意に彼は帰還した。
見たこともないような上等な服を着て、ボサボサだった髪にも櫛を入れ、元々下町では目立っていたその色白で少女のような風貌は、更に洗練されていた。
なのに、ドンファの母の経営する大衆食堂の前に立ち尽くしたサンウは、酷く頼りなく寂しげに見えた。
彼がこの街を去ってから、二ヶ月が過ぎていた。
風呂場で不意に「帰りたくない」と泣き出したサンウを見た時、ドンファの幼い心の中には、それと気づかぬ小さな警鐘が鳴り響いていた。
幸せになったんだと思っていた。
だから、諦めた。
そんな自分たちのキングの、今までに見たこともないような小さく震えて泣く姿。
「帰りたくないって、何かあったの? サンウ」
湯船の上にポツリポツリと波紋を投げるサンウの小さな涙の粒を親指で拭ってやりながら、ドンファが尋ねる。
「親父さん、良くしてくれないのか?」
サンウは唇を噛み締めたまま首を横に振る。
「誰かに、苛められてるのか?」
またしてもサンウは頑なに首を横に振る。かつてとはまるで立場が逆になってしまったようで、ドンファ自身も戸惑ってしまう。
その時、不意に風呂場の外から、タイヤがキュッアスファルトを擦る音がして、続いてもう軒を下ろしたドンファの食堂の入り口を乱暴に叩く音が聞こえてきた。
「こんな夜更けに何ですか? もう店は閉店……キャッ!!」
店のドアを開ける音とともにドンファの母の声と悲鳴、突き飛ばされ床に倒れる音が上がった。
湯船の中で顔を見合わせた二人が立ち上がりかけた時、ドカドカと遠慮なく風呂場に突進するいくつもの足音が近づいてきて、激しい音をたてて風呂場のドアが開けられた。
「サンウ坊ちゃんっ! 帰りますよ」
乗り込んできた黒服の男たちは、裸のサンウの腕を無理やり掴んで無理やり風呂から出そうとした。
「嫌だっ! 触るなよっ!」
バチャバチャと水しぶきを上げて、サンウは湯船の中で暴れて抵抗した。
「俺はあの家には帰らないっ! ここで暮らすんだっ!」
「聞き分けのないことを。お父様に恥をかかせるんじゃありませんよ」
上等のスーツを水浸しにされた男の一人は、有無を言わさず裸のサンウを肩に担ぎ上げた。
「嫌だっ! 離せっ! 助けて、ドンファッ……ドンファッ」
「サンウッ!」
サンウは男の肩の上から、泣きじゃくりながら必死でドンファに向かって手を伸ばした。その手を掴もうと伸ばした手を呆気なく払われて、肩を押されたドンファは、無残に風呂の中に沈められた。
「……ウッ……ゲホッ……ゴホッ!」
手足をばたつかせてようやく水面に顔を出した時には、サンウの長く尾を引く悲鳴とともに、外で車のドアが閉まる音がした。
ドンファは夢中で裸のまま外へ飛び出した。
「サンウッ!」
エンジンが無常な音を響かせて鳴り響く。
「サンウーッ!」
全裸で夜の街を再びサンウを連れ去った黒塗りの車を追いかけて走ったが、ついに追いつけないまま、サンウを乗せた車は夜の先でカーブを曲がり見えなくなった。
サンウが去った後で、彼が自分の生まれ育った下町に遊びに来た訳ではなく、監視の目をかいくぐって家出をしてきたのだと知った。
サンウの父親は黒服の男たちに託して、騒がせた侘びにと、ドンファの母親に過ぎるくらいの金を渡そうとしてきた。
いずれ、名門の家系であるパク家を継いでいくために、幼い今から帝王教育を施さなければならない。
そのためにサンウにとっては厳しく感じる時もあるだろうが、もう下町で母親の元、自由に転げまわっていられる立場ではないのだと。
だから、里心が付かぬよう、サンウに昔の仲間を近づけるようなことは止めて欲しい。
事実上の縁切りの申し出だった。
金で下町からサンウを売り渡すような真似はしたくないと、ドンファの母はその金を突き返した。
ドンファも同じ思いだった。
「……母さん。サンウの奴が今どこに住んでるか、分かる?」
サンウが再び連れ去られて後、ドンファは母に尋ねた。
サンウの方から会いに来れないのなら、今度は自分から会いに行くしかない。
サンウは助けを求めていた。
今まで何度も助けてくれたサンウ。
今度は自分の番だった。
母は黙って、地図を書いてくれた。その地図を握り締めて、ドンファはサンウの元へと走った。
電車を乗り継いで一時間、ソウル郊外の閑静な住宅地の中でも、サンウが暮らすパク家の敷地は国立公園かと見まごうばかりに広大だった。
ポチャポチャした身体を庭の植え込みの間に割り込ませて、ドンファはそこでジッとサンウの帰りを待った。
今日は日曜日で学校は休みだったが、サンウが隣町の塾へ通っていることは同じ塾に通うドンファの級友から聞いて知っていた。
朝から待っていたドンファがいい加減空腹と疲労の限界でウトウトしかけた時、ようやくサンウが黒服の男たちに付き添われて帰宅した。
ポケットの中に手を突っ込み、ドンファは父親からくすねて来た、皮ベルトが擦り切れた腕時計を覗いた。
時刻は既に午後の三時を回っていた。
植え込みの影から覗くサンウの顔は相変わらず生白く、ますます精気がなくなっているように感じた。
サンウは他の黒服たちに見つからぬよう植え込みに姿を隠したままサンウの入って行った屋敷を見上げ、二階の東側の部屋のカーテンが揺れるのを確認した。
そこがサンウの部屋だと当たりをつけたドンファは、足元から小さな石を拾い上げ、窓に向かって放り投げた。