6-6
*
喉が渇く。
喉の奥まで掻きむしりたくなるような、焼けるような渇きに襲われる。
身体にはゾクゾクと悪寒が広がっていくのに、先ほどからベタついた脂汗がジットリと皮膚の表面を覆って、不快でたまらない。
ここはどこだ?
俺は、今どこにいる?
早く帰らなきゃ。
でも、どこに?
「……ウ……サンウッ!」
揺さぶられ、ハッと目を覚ました。
いきなり視界いっぱいに入り込んできた蛍光灯の明かりが目の裏を刺して、彼は頭を押さえて枕の上に突っ伏した。
「サンウ?!」
右斜めの頭上から、聞きなれた声が降ってくる。
「大丈夫か?」
それで、ようやく恐る恐る声のした方を振り返る。
「……」
「随分うなされてたぞ」
肉厚の手の甲で、サンウの額の脂汗が拭き取られる。
その時サンウは、その手の持ち主の二の腕の裏に、血が滲んだ痛々しい引っかき傷が無数に走っていることに気がついた。
「……それ……俺が?」
弱々しく尋ねたサンウに、男は今初めて気がついたというように、腕を捻って笑った。
「気にすんな、掠り傷だ。警察学校に入りたての頃は、こんなもんじゃなかった。それに、鍛えられて皮膚も厚くなったんだな」
「面の皮の間違いだろ?」
「随分、元気じゃねぇか」
男は笑って、サンウの汗まみれの背の下に手を入れ、ベッドの上に身体を起こすのを手伝ってやった。
「水飲めよ。そんだけ汗かいたら、干からびて死ぬぞ」
口は悪くても、男は甲斐甲斐しくサンウの口元に水差しを持っていってやった。
「悪い」
サンウは素直に男の手から水を飲んだ。
あんなに喉が渇いていたというのに、実際に喉に流し込めたのはほんの少量だった。
サンウは男が背中に当ててくれた枕に背中を沈め、先ほどから目の前でチラチラと揺れ動くテレビの画像に目を凝らした。
ブラウン管の中では、もう何年も前に流行った古い映画が流れていた。
白黒の画面でも、女の施した濃い口紅の色が艶かしく輝いている。場末のバーでピアノにもたれながら披露する歌は、低音で掠れていたが、女優にしては個性的で見事なものだと、その年の数々の映画賞を総ナメにしたことで有名だった。
「……いい女だなぁ」
嚥下しきれなかった水を顎の先から垂らしたまま、サンウはうっとりと画面に見入っていた。
どこか夢見るようなその視線から、男は堪らず目を逸らす。
ブラウン管の中の、名も知らぬ女優。
だがやはりそれは、お前が求めるあの女にどことなく似ている。
「進歩無いな。昔から、女の好みが変わらない」
男がそう言うと、サンウは初めてテレビから男に視線を移して、決まり悪そうに笑った。
「帰らなくていいのか? 娘が寂しがるぞ」
「……帰るさ。お前が、眠ったら」
そう言うと、男は再びサンウのやせ細った背中に腕を回し、ベッドに横たえてから、優しく毛布をかけてやった。
*
「やーい、ノロマのドンファー!! バーカ、バーカ」
「やめろよっ! 返せっ!」
「母ちゃんの飯が旨くてそんなにデブになったのか? でも、お前んちの食堂、クソ不味いよな。うちの父ちゃんも言ってた。ブタの餌だってっ!」
「母さんのこと、バカにするなっ!」
「あれー?! 泣くのか? 泣くぞ、こいつ。ハハッ! 泣いたらますます、ブタにそっく……ウワッ!!」
太った少年のカバンを奪い、高らかに掲げながら後ろ向きに歩いていた少年は、不意にバランスを崩して、思い切り地面に尻餅をついた。
「誰だよっ?! 足ひっかけたや……」
転んだ少年が起き上がる前に、少年は再び強い力で地面に押さえつけられた。
少年の胸の上には、擦り切れたスニーカーの足が乗っている。
「今度ドンファを苛めたら、どうなるって言った?」
「あ……あああ……サンウッ!!」
胸を踏まれたまま、少年の顔が一気に青ざめる。周囲の取り巻きたちも、リーダー格が足蹴にされているこの危機的状況から、早くも逃げ出そうと身構え始める。
「消えろ。もう二度目はないぞ」
スニーカーの先に伸びる痩せぎすの足の更に上から、色白の優しげな面差しをした少年が、その顔立ちにおよそ似つかわしくないドスの効いた声を響かせる。
胸を踏まれたままの少年は、そのままコクコクと頷いて、足の力が少し緩んだ隙に、地面を這うようにしてその場を逃げ出した。
途端に、どこに隠れていたのか、路地の隙間から何人もの少年たちが湧き出てきて、太った少年と色白の少年を取り囲んだ。
「サンウッ! サンウッ!」
手拍子でも始めそうな勢いで、少年らは敵を追い払ってくれた少年に向かって惜しみない賛辞を送る。
「よせよ」
少年は気恥ずかしそうにそれらを振り払ってから、太った少年の手を掴んだ。
「大丈夫か?」
そう言って、足を引っ掛けて転ばせた拍子に奪い返したカバンを、太った少年の手に返してやった。
「泣くなよ。カバンは取り返したし、仇はうってやったんだから」
「……サンウゥ……」
「ああ、もうっ! 男のくせにメソメソするな。来いよ、父さんに小遣いもらったからさ、みんなで菓子でも食いに行こうぜっ!」
その途端、顔を上げた少年に八重歯を見せて笑いながら、色白の少年はみんなの前に立って走り出す。
少年の名は、パク・サンウ――
ソウル市街の下町で生まれ育ったドンファと、彼は幼馴染だった。
大衆食堂を営むドンファの家の隣り、粗末な集合アパートの一室に、サンウは若い母親と二人で暮らしていた。
「サンウ? 夕飯までには帰ってきてね」
サンウが子分にしている少年たちを引き連れてちょうどアパートの下を通り過ぎようとした時、二階の窓から顔を出したサンウの母親が声をかけた。
「分かってるよ、母さん!」
サンウはアパートを見上げて手を振る。
ドンファもゼイゼイ言いながらサンウたちの一団を追いかける途中で、チラリと二階の窓を見やる。
サンウの母は、華奢で色の白い、子ども心にも下町には不釣合いな美しい女だった。サンウは“女顔だ”と言われるのを嫌がっていたが、色の白さと柔和な顔立ちは、どうみてもこの美しい母親から譲り受けたものだった。
彼女の職業はスナック歌手。
ドンファたちの大衆食堂の二軒先の寂れたスナックで、毎晩歌って日銭を稼いでいた。
貧しい暮らしの中にあっても、サンウやその母には少しも生活に疲弊し、擦り切れるところがなかった。
それは、半年に一度アパートの下に現れる、黒塗りの高級外車に原因があったのかも知れない。
狭い街の中において、サンウの母が警視庁総監の情婦だという噂を、知らぬ者はいなかった。
まだ幼かったドンファが大人のそんな事情を理解することは出来なかったが、何となく、サンウやその母親は下町の住人である自分たちとは違うものを、幼心に感じていたのは確かだった。