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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第6章【許されるなら】
158/219

6-5


「優秀な後輩が入ってきてくれて嬉しいよ」

「……はぁ」

「ほら、明慶の一件でユン警査とツルんでた鑑識メンバーは一斉免職と左遷の憂き目にあっただろ? それで慌てて元鑑識集めたって、現場離れて何年も経つ俺なんか、即戦力になりゃしない」

「いえ……そんなことは」

「いやいやいや! 謙遜するな、チェ・ジノン警衛よ。俺みたいな古い人間よりも、前途有望で優秀な君みたいな男が、明日のソウル市警の鑑識を背負っていくのだよ」

「自分は、鑑識の経験はありませんし」

「何言ってるんだ? 一般大の名門理工学部卒の幹部候補生に、経験なんて必要ない」

「……そういうもんでしょうか?」

「そういうもんだ。あとは、先輩の言うことを素直に聞く心があれば、君の鑑識官としての未来は明るい」

「……はあ」

「だから、今日は君一人で掃除をしてから、帰るように」


 長々と熱弁を奮っていた男は、最後にそう言うと、書類や薬品等が乱雑に散らかった鑑識室を振り返って微笑んだ。


「じゃあ、あとよろしくな!」


 調子のいい先輩は、自分はさっさと帰り支度を済まし、後輩の肩をポンポンと叩くと、意気揚々と鑑識室を出て行った。


「……はぁ」


 先ほどから、何度目になるか分からない溜息を吐いて、ただ一人乱雑に散らかった鑑識室に残されたチェ・ジノン警衛は、ヨロヨロと丸椅子に腰をかけて俯いた。

 ホン・サンギョ警査が、名門の明慶大学学長を脅し、学生の間に確立させた販売ルートで合成麻薬を売りさばいていた一連の『エデン』事件の煽りを受け、ホン警査から賄賂を渡され、『エデン』で死んだ女子学生の検視結果を改ざんした鑑識メンバーは、一掃されていた。


 事件の絶えない昨今において、鑑識もフル稼働しなくてはならないのに、引継ぎもままならず新メンバーに託された鑑識室は、はっきり言って鑑識としてまともな機能をしていなかった。

 年度の途中で急に異動を命じられたジノンにとってもそれは同じことで、交通課からいきなり右も左も分からない鑑識に配属されたと思ったら、頼るべき直属の上司は、口八丁手八丁ばかりの何とも頼りない男で、ジノンに仕事を押し付けることしか考えていない。


 何が、君の鑑識官としての未来は明るいだ。

 お先真っ暗じゃないか。


 そう悪態の一つもついてやりたくなりながら、この散らかった書類を片付けなければいつまでも帰れないこともよく分かっているので、ジノンは疲労感に打ちのめされながら渋々立ち上がった。


『エデン』事件の主犯であったホン警査の自殺で終わったこの内部の不祥事は、同じ警官の中にも、何とも後味の悪いものを残していた。

 ノロノロと机の上に広げられた書類を手に取りまとめていく。

 ファイリングさえ追いつかないほどに、仕事は溜まりに溜まっていた。

 その時、キィっと軋んだ音を立てて、鑑識室のドアが開いた。


「先輩? やっぱり、戻って……」


 期待して振り返ったジノンは、そこで思わず腰を抜かしそうになった。


「ヒィッ!!」


 警察官にあるまじき、何とも情けない声を上げて、ジノンは手にしていた書類を全てぶちまけてしまった。

 ドアのところにのっそりと立っていたのは、剥げかけた貧相な頭に、黒いヨレヨレのスーツを着た、幽霊のような男だった。


「そんなに驚くな」


 ドアの幽霊は呆れたようにそう言うと、音も無くジノンの元に歩み寄ってきた。

 彼が人間だと分かってはいても、ジノンは何となく逃げ道を探して後ずさってしまう。


「幽霊でも見たみたいな顔してるぞ」


 冗談のつもりなのだろうが、本当に幽霊のような男に真顔でそんなことを言われて笑えるわけがない。

 男は胸ポケットからボロボロになった警察手帳を取り出した。


「捜査課の書記官をやってる。ノ・ヒチョルだ」


 ぶっきらぼうにそう名乗ると、男は再び手帳を貧相な胸元にしまい込んだ。


「チェ・ジノン警衛です」


 階級は自分の方が上だが、明らかに年上な、というより定年近いベテラン刑事に向かって、ジノンは敬礼のポーズを取った。


「鑑識依頼だ」


 男が短くそう告げると、ジノンは困ったように眉を下げた。


「生憎、上司が帰宅して……伝えておくので、明日正式にお返事を……」


 そう言ってメモ用紙を取ろうと伸ばしたジノンの手を、骸骨のようなヒチョルの手が掴んだ。


「ヒッ!!」


 またも思わず情けない声を上げるジノンに、ヒチョルは呆れた視線を向ける。


「いちいちビクビクするな」

「はぁ」


 なら、いちいち脅かさないでくれと、ジノンは心の中で呟いた。


「俺は、お前に、依頼してるんだよ」

「はい?」


 意味が分からないという顔で見返すジノンに、ヒチョルは脅すように顔を近づける。


「分からないか? お前個人に依頼してるんだ。俺の、個人的な調査だと思ってくれればいい」

「そんな! できませんよ、そんなこと。何言ってるんですか?!」


 ジノンが慌ててヒチョルの手を振りほどこうともがいても、骸骨のような骨格のどこにそんな力があるのか、腕に食い込んだヒチョルの手は、ジノンがもがけばもがくほど、深く肉に食い込んできた。


「チェ・ジノン警衛。入庁11年目。成凜大理工学部生物学科出身。一般大卒の幹部候補生。主席合格が警察大学校出身者でなかったのは、ここ十何年でもお前だけだ」

「何で僕の経歴を?」


 ジノンはいよいよ気味が悪くなり、この幽霊のような男から逃れようと身を捩った。


「お前なら、信用できると思った。人事はクソだが、お前を鑑識に異動させたことは、ソウル市警最大の功績だと思ってる。お前を見込んで、頼みがあるんだ」

「それが、極秘の鑑識依頼ですか?」

「察しがいいじゃないか。頭のいいヤツは好きだよ」


 ヒチョルはそう言うと、初めてニヤリと笑った。笑っても薄気味悪さに変わりはない。却って、不気味さが増している。


「これが、同一人物のものか調べてほしい」


 そう言うと、ヒチョルは胸ポケットから取り出した白いハンカチを、机の上で広げて見せた。

 中身を見たとき、ジノンは今までで最大になる悲鳴を上げた。


「っな?! 何ですか、これは……」


 ハンカチの上に散らばっていたのは、乾いた血痕の付着した、人の爪の欠片だった。

 ヒチョルはそんなジノンを無視して、もう一つポケットから今度は白い封筒を取り出す。中からは、数本の人毛が挟まれたセロファンが出てきた。


「この爪についてる血液と、この毛髪の持ち主が一致するか……できるな?」

「何の捜査かも教えてくれないんですか?」

「全部終わったら、教えてやるよ」

「……殺し、ですよね?」


 声を落としながらも鋭く尋ねてきたジノンに、ヒチョルは苦く笑った。


「心配しなくても、お前を巻き込むようなことはしないよ。定年前の老いぼれを、哀れと思ってその出来のいいオツムを貸してくれ。それだけだ」


 ヒチョルは骨ばった手で、若いジノンの肩をポンポンとなだめる様に叩いた。




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