6-4
「忘れるなよ、ヨンチョル。お前の懐の抜き身は、一本じゃない」
急所を狙われた男は、動揺する素振りもなく、薄い微笑すら浮かべて男を見上げた。
「その通り。よく知ってるさ。サンウよりよっぽど抜け目ない。ガキの頃からそうだったよ。お前をただの一度も信用したことはないが、なぜ俺がお前を手元に置き続けたと思う?」
分からないか? そう小バカにするような笑みを浮かべて、男は続けた。
「お前が、サンウの忠実な影だったからだよ。サンウのためなら、自らの身体も傷つけ、手を汚すことも厭わないお前だったから」
男の目線は、杖を手にしたままの男の不自由な足元に注がれる。
「だが、鋭利な抜き身も今はナマクラだ」
「何だと?」
「娘は、いくつになったんだっけ?」
「……貴様っ!」
思わず震えた杖を片手で払いのけて、デスクの男が立ち上がる。
「時間だ」
それを合図のように、扉が開き黒服の男たちがなだれ込んでくる。振り返った男は、あっという間に黒ずくめの男たちに取り押さえられた。
「ヨンチョルッ!」
叫ぶ男の肩を軽く叩いて、男は笑った。
「じゃあな、弟」
それだけ言うと、男は唇から笑みを消し、黒服の男たちに顎をしゃくった。
「ヨンチョルッ! ヨンチョ……ッ!!」
叫ぶ男の鳩尾に、思い切り鋭い拳がめり込む。
「連れて行け」
冷たい声でそう命じると、黒服の男たちは無言で、意識を失った男を引きずるように部屋の外へ連れ出した。
*
雲行きの怪しい午後の空の下、その美しい顔に不釣合いな程の張り詰めた筋肉が、捲り上げたシャツの間から覗く。
ポタリ……と額から垂れた汗をぬぐうと、ジェビンは腕に力を入れなおし、ビールケースを抱え上げた。
黒テントの中へ運び込もうと振り返った時、ジェビンはテントの前で立ち尽くしたまま、戸惑いがちにこちらを見ているミンホの姿に気がついた。
「……何しに来た?」
ビールケースを抱えたまま、ジェビンは低い声で呟いた。ミンホは一瞬鼻白んだが、きっぱりした声で言った。
「ナビヒョンに、会わせてください」
「帰れ」
にべも無く、ジェビンはミンホの願いを退ける。
「何でっ?!」
「お前ら、何があった?」
ジェビンは重いビールケースを下ろし、ミンホに対峙する。
「ここ何日か、あいつの様子はおかしかった。俺は、お前に何て言った? ナビは俺の家族なんだ。あいつを少しでも泣かせるようなことがあったら、すぐに連れ戻すって、言ったよな?」
ジェビンはミンホの肩を軽く小突くと、再び腰を屈めてビールケースに手を伸ばした。
「帰れ。幸せにするって、お前は誓った。たったこれだけの約束も守れないような奴に、ナビは渡さない」
「……僕だって」
不意に降ってきた苦しげな声に、ジェビンが思わず顔を上げる。
「僕だって、幸せにしたいんだ。本気で、あの人を笑顔にしてあげたいんだ。だけど……知らないことが、多すぎる。幸せにするために、あの人のことを知りたいんですっ!」
ジェビンは身体を起こし、その時初めて、ミンホを真正面から見つめた。
乾いた唇を噛み締めたミンホの大きな黒い目は、薄っすらと涙の膜で覆われていた。
「僕……会ったんです。ナビヒョンの、父親だと名乗る人に」
ミンホのその一言で、ジェビンの顔色が変わった。
「いつ?! どこでっ?!」
ジェビンはミンホの肩を掴み、強い力でテントの壁に押し付けた。その拍子に、テントの屋台骨が軋んだ音を立てて揺れる。
「……あ……狎鴎亭の、宝石店で……」
ジェビンの剣幕に押されながら、ミンホが切れ切れに答える。
「教えてください。僕と出逢う前の、ナビヒョンのこと」
ジェビンは美しく染めた金の髪を掻き毟りながら何事か思案しているようだったが、やがてミンホに背を向けて言った。
「入れ」
短くそれだけ言うと、自分から先に黒テントの中に入って行った。
まだ客の集まってきていない黒テントの中は、ひんやりと冷たかった。
ジェビンはカウンターに黙って腰を下ろし、ミンホも一つ開けた隣りの席に戸惑いがちに腰掛けた。
「……ナビは眠ってる」
「具合でも悪いんですか?」
「三日前からだ。ずっと、うなされてる。店の裏で倒れてたのを俺が見つけた」
「何で、そんなことっ!」
思わず立ち上がったミンホを片目で見上げ、ジェビンは静かに言った。
「俺と出会ったばかりの頃も、よくこうなった。何かのきっかけに、直視できない過去を突然思い出すと、過呼吸を起こして倒れた。だけど、ここ何年も、こんなことなかったのに」
ジェビンはカウンターに肘をつき、苛立たしげに爪を噛む。
「ヒョンの、過去って……」
「俺だって、全部を知ってる訳じゃない。俺がナビに初めて出逢ったのはあいつが十六の時だ」
「……はい。オーサーさんから、少し聞きました」
ミンホは思わず表情を硬くしてそう伝える。
ナビの初恋の相手――
オーサーはナビが今の自分を取り戻すために必要な恋だったと、今二人には肉親のような情以上のものは何もないと言ってはいたが、目の前のこの美貌の男が、かつて確実にナビの心の中に住んでいたことがあるのだと思うと、未だに複雑な気分は拭えなかった。
「出逢ったとき、あいつは口が利けなかった。古いのも新しいのも合わせて、全身痣だらけだった。裸足で、ゴミの山に隠れるようにして、震えながらうずくまってた。猫みたいに」
ジェビンはその頃のナビを思い出しているのか、つり上がった大きな目を細めて、苦々しげに呟いた。
「あいつをそんな目に合わせた張本人は、牢屋にぶちこまれて、その隙にナビは逃げてきたって、ようやく怯えながらも教えてくれたのは一年後だ。やっと、声を取り戻してから」
「牢屋にぶちこまれた?」
ミンホは眉を寄せてジェビンの横顔を見つめる。
「ナビを、十年近くもいたぶって来たろくでなしの悪党だ」
吐き捨てるように呟いたジェビンの瞳は、ゾッとするくらい冷たく暗い色を宿して燃えていた。
「……あいつが何をされてきたか、俺にはよく分かる。100回刺し殺しても、足りないくらいの罪だ」
呪いの言葉を吐くようにジェビンは言葉を紡ぐ。
その横顔は、日頃『ペニー・レイン』の美貌のオーナーとして、チョルスやミンホをからかいながらも暖かくもてなしてくれた彼とは別人のものだった。
(君は、痛みってやつを、どれくらい知ってる?――)
いつかのオーサーの言葉を思い出す。
ジェビンとナビが抱える深い心の闇。
虐げられ、尊厳を汚され、踏みにじられた者だけが知る、魂の悲鳴。
「声を取り戻して、笑うようになって……それでも、あいつは苦しみ続けた。雨が続くと、うなされた。今みたいに……あの、ろくでなしの名前を呼んで」
ミンホは思わずカウンターに肘をついたジェビンの手を取った。
無意識の内に爪を噛み切っていたジェビンの口元から顎にかけて、血が一筋滴り落ちる。
ハッと我に返ったジェビンは、ミンホの手を乱暴に振りほどいた。
「誰にでも、一生忘れたくても忘れられない人間が一人くらいいるだろ? その相手が、愛する人でいられる奴がどれだけ幸せか、お前に分かるか?」
ジェビンは今、ナビを通して自分の過去を見ているのがミンホには分かった。
「時々、自分でも勘違いしそうになるよ。ようやく忘れられたと思ったのに、瘡蓋を剥がせば、いつまでも膿んだ傷口が広がってる。呪いみたいに、頭にこびりついて離れないヤツの名前。憎くて憎くて、ゾクゾクする……これはもう、恋なんじゃないかってな」
乾いた声で笑いを漏らすジェビンの瞳には、ミンホが見たこともない狂気の色が浮かんでいた。
「ナビヒョンが、忘れられない人の名前って……」
ミンホが恐る恐る尋ねると、ジェビンは口の端を曲げて憎々しげに吐き捨てた。
「パク・サンウ――」
ミンホの脳裏に、あの狎鴎亭の宝石店で出会った、枯れ木を連想させる薄汚れた男の顔が浮かぶ。
(私、ハヌル――いや、あんたたちの呼ぶところのユン・ナビの父親、パク・サンウです)
(……息子が随分、世話になってるようだな)