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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第6章【許されるなら】
156/219

6-3

「言葉で、答えてごらん。君は今、どこに誰といるの?」


オーサーがナビの耳元でそう呟くと、ナビは突然、喉の奥でグエッと嘔吐するような声を上げた。腰を浮かして思わずナビに駆け寄ろうとしたジェビンを目で制して、オーサーは尚も続ける。


「声を“出してもいいんだ”よ」


 言葉を区切るようにそう告げるオーサーに、ナビはいよいよ本格的な嘔吐で応えるかのように見えた。えづいて、苦しげに目尻に涙を浮かべるナビを見かねて、ジェビンがオーサーに向かって叫ぶ。


「おい、もう止めろ! 苦しがってるじゃないか」

「君の傍に、誰がいるの? 君が声を“出しちゃいけない”のは、誰のため?」


 オーサーはジェビンを無視して、更に畳みかける。

 苦しさに椅子から崩れ落ちたナビを追って、オーサーも床にしゃがみ込む。


「君の声は、今君の傍にいる人には絶対に聞こえない。だから、安心して僕に教えて。君の隣にいるのは、誰なんだ?」

「……ウ」


 喉を押さえて、ナビは呻き声のような音を漏らす。


「サ……ン、ウ……」


 切れ切れに紡がれたその名を吐き出した途端に、ナビの閉じた目から大粒の涙が溢れだす。


「――サンウ」


 オーサーがナビから苦しげに生み出されたその言葉を拾う。それ以上の“声”を引き出すことは不可能だと判断して、オーサーは未だ目を閉じたままのナビの手にペンを握らせ、いつもナビのためにカウンターに常備してある会話用のメモ帳を破って床に置くと、ナビの手を導いた。


「サンウは、誰? 君の、何?」


 ナビの手を握り込んだまま、その動きに任せると、ナビはたどたどしくペンを動かした。


『キング』


 ナビの、年の割に酷く幼く、稚拙な文字が短くそう綴る。


王様キング?」


 ナビの手は、更にぎこちない動きを続ける。


『可哀想な、キング』

「何が、可哀想なの?」

『さらわれて、来たから』

「さらわれた?」


 ジェビンも床に座り込み、ナビの綴る不可解な文字を目で追っている。


『……僕に、コレをくれた、僕の王様キング


 そう言って首を傾げると、ナビの左耳のドロップ型のピアスが揺れた。


『世界で一番優しくて、世界で一番哀しい王様』


 続けてナビが書き連ねた言葉に、オーサーとジェビンは密かに顔を見合わせた。

 酷い衛生状態で無理やり開けられたと思われるその耳の小さな傷跡は、ナビが首を傾げる度に、鋭い輝きを放つ。だがそれは、やせ細った捨て猫のような持ち主には、およそ不釣り合いな暴力的な輝きだった。

 耳の柔らかな肉を抉って突き刺さった針の先は、今では皮膚の一部と癒着して、外すことさえ困難である。

 ナビの耳に巣食ったピアスは、離れていても尚ナビの心を侵食し続ける、王様キングそのものの残酷な輝きを放っていた。





 コツコツコツ……


 硬質な音を響かせて、大理石の床を叩く音がフロアにこだまする。

 小奇麗な服を着て、美しく装ったこのビルの受付嬢二人は、近づいてくる異様な風貌の男を怪訝な顔で見つめていた。


「……あの」


 二人の前を素通りしていこうとする男を捕まえて、女の一人が堪らず声をかけた。


「どちらへ?」

「パク候補の後援事務所へ」

「アポイントはお取りですか?」


 女の言葉を無視して、男は先へ進もうと更に一歩踏み出す。


 コツ……


 先ほどから床を叩くその音は、彼が自分の足代わりに操る杖の音だった。


「待ってくださいっ! お約束も無しに困りますっ!」


 慌てて受付カウンターの中から飛び出して来た女が、男の前に立ちふさがる。

 男は不自由な足を引きずりながら、女の肩を押しやった。


「パク・ヨンチョルに伝えてやれ。お兄様ヒョンニムナムドンセンが来たってな」

「困りますっ! きゃっ!!」


 男の杖に足を絡めて、女が大理石の床に転倒する。


「誰か来てっ! 不審者よっ!」


 すっかり動転したもう一人の女が控えていた警備員に助けを求めたその時だった。


「お前みたいなナムドンセンを持った覚えは無いけどな」


 降ってきた、低く響き渡る重厚な声音を振り仰ぐと、吹き抜けになった二階のフロアから、黒服の男たちに囲まれた男が、一階の騒動を見下ろしていた。


「ずいぶん冷たいじゃないか、兄さん」


 杖を着いた男がそう声を張り上げると、二階の男は鼻で笑った。


 こっちへ――


 顎をしゃくることで短くそう伝えると、男は背を向けてフロアの奥へと姿を消した。

 


 エレベーターのドアが開いた途端、無言で近づいてきた黒服の男たちに脇を固められ、杖の男は奥の部屋へと通された。

 大の男二人がかりで開けられた重厚な作りの扉の向こうには、大きな窓から燦燦と降り注ぐ陽光を背にした黒い影が、腕を組みながらデスクに寄りかかった姿勢で男を待っていた。


「どうした? 昼間から。影は人目を忍んで夜動くものだろう?」

「あんたの影になった覚えはない」


 杖の男が低い声でそう切り返すと、デスクの影は肩を揺らして笑った。


「サンウの影なら、俺の影だろ?」

「サンウが好きで、あんたの影になったとでも?」

「ああ、そうさ。あいつが望んだんだ」


 そう言うと、影はまだ肩を揺らして笑いながら、ゆっくりと窓側に回り込み、自分のデスクに腰を下ろした。


「五分で終わらせろ。後援会との打ち合わせがある」


 椅子を軋ませて仰け反る男の顔は、やはり逆光になりその表情は分からない。

 杖の男は一歩踏み出し、静かに言った。


「あんたの影に、せめてもの哀れみをかけてやれ」

「金なら充分に渡してやったろ?」

「充分? 明慶大の一件で得た莫大な金の、ほんの一握りだろ?」


 男が思わず声を荒げると、デスクの男の声が吐き捨てるように冷たく沈んだ。


「クズが……欲をかくなよ。お前らみたいなクズが、贅沢さえしなけりゃ一生遊んで暮らせるだけの金だ」

「生憎と、医療費がかさむもんでな」

「……医療費?」


 怪訝な様子で顔を上げた男と見つめあうこと数秒、杖の男は決意したように口を開いた。


「……サンウは、末期の肺ガンだ。闇で買うモルヒネも、量を増やさなきゃ効かなくなってきてる」

「……」


 一瞬の間の後、デスクの男が深くうつむく。

 その様子を黙って見守っていた男の目に、やがて広くがっしりとした肩が小刻みに震える様が映った。


「……ヨンチョル」


 躊躇いがちの声をかけた男の前で、デスクの男の肩の震えが一層激しくなる。だが、男のうつむいた口元から遂に堪えきれずに漏れ出したのは、嗚咽ではなく、噛み殺すような笑い声だった。


「……何が、可笑しい?」


 杖の男の、肉厚な瞼の奥の小さな目が、憎しみに細められる。

 デスクの男は顔を上げ、腹を抱えて笑い出した。


「消す手間が省けたと思ってな! 神様も粋なことをしてくださる。いつでも、懐に抜き身を抱いているようなものだと思っていたから。錆びた抜き身だったら、朽ちるのを待っていてやれる」

「それが、たった一人の弟に言う言葉かっ!」


 ついに我慢できなくなった男は、デスクに歩み寄り、杖を振り上げて思い切り目の前のデスクを叩いた。


「俺は、ただの一度も、あいつを弟だと思ったことはない」

「ヨンチョルッ……」

「『さん』を付けろよ」


 男は震える手でデスクに叩き付けた杖をスライドさせると、真っ直ぐに椅子に座る男の喉元に突きつけた。




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