6-2
「何があったの?」
「分からない……話は後だ。ナビを運ぶ。手伝ってくれ」
ジェビンは端的にそう告げると、両腕にナビを抱えあげて立ち上がった。
オーサーがすぐさまキャンピングカーのドアを開けに走る。
「身体が冷え切ってる。お湯を沸かしてくれ……あと、タオルも……」
ジェビンがそうオーサーに指示を出していた時、不意に意識のないナビの口から、何かうわ言のような言葉が漏れた。
「……何? ナビ」
ジェビンがその言葉を聞きとろうと、ナビの口元に耳を近づけた。
「……サン……ウ」
漏れ出た言葉は、か細いながらも側にいたオーサーの耳にも届いた。
オーサーとジェビンは顔を見合わせる。
「チッ」
派手に舌打ちしたのは、ジェビンの方だった。
「……何で、今更そんな名前」
思い切り顔をしかめるジェビンの横で、オーサーはこの店を始めたばかりの頃、出会ったばかりの幼いナビの姿を思い出していた。
*
「……どうだ?」
「若干栄養失調気味ではあるけど、いたって健康、問題無し。身体の方はね」
枕を抱きしめてスースーと寝息を立てるナビの口を、無理やりこじ開けて突っ込んだスプーンで舌を押さえていたオーサーは、スプーンをそのまま引き抜くと、親指と人差し指を使って、ガマ口を閉じるようにナビのふっくらした唇を閉じた。
ナビは、ウウともムムとも付かないような唸り声を上げて、眉を顰めながらしばらく口をムニャムニャと動かしていたが、やがて元通りの規則正しい寝息を立て始めた。
「発声器官がイカれてるわけじゃないから、声が出ないのはもっぱらコッチの問題だと思う」
そう言って、オーサーは自分の胸を親指でトンッと叩いて見せた。
「お前、精神医学は専攻してないよな?」
「俺を誰だと思ってるの? 天才オーサー・リー先生よ。専門外でも、一通りの知識は入ってるよ」
オーサーは心外だと言う様に胸を張って見せたが、すぐに表情を曇らせた。
「ダメ元でやってみる? 催眠療法」
オーサーの言葉に、ジェビンはどう答えていいのか考えあぐねているようだった。
「あんまり、乗り気じゃなさそうだね」
俺も同じ――そう言って、オーサーは溜息を吐くように笑った。
「他人の心を、無理やり覗き込んで暴き立てるような気がしちゃって、ね」
ジェビンなら、分かるよね?――オーサーの目は無言でそう問いかけていた。
「……それでも、声が出るようになるかもしれないんだろ?」
ジェビンは暗い表情のまま、オーサーから目を逸らし、眠るナビを見つめながら言った。
「こいつの、笑い声……聞きたいよ。あんなに可愛く笑うのに」
ジェビンはナビのサラリとした黒髪をかきあげてやる。
白く丸い額のすべらかな感触が、ジェビンの指先を通じて伝わってくる。
「……分かった」
オーサーはそんなジェビンの様子を見て、静かに頷いた。
「やるだけ、やってみよう」
ポンポンとジェビンの肩を叩き、オーサーは立ち上がった。
「ナビちゃーん、オーサー先生と、あーそーぼー」
翌日、準備中の札を下げた店内に、いつものように何の前触れもなくオーサーが訪れた。
ナビは隙あらばベタベタしたスキンシップを求めてくるオーサーを苦手にしていて、今日もつれなく、サッとジェビンの後ろに隠れてしまった。
「いやーん、ナビちゃんのイケズゥ」
オーサーはクネクネしながら、相変わらずふざけた調子でカウンター越しにナビにちょっかいをかける。
「今日はナビちゃんと面白いゲームしたくて、準備して来たんだけどなぁ」
オーサーが残念そうに呟くと、ナビは好奇心を隠せなかったらしく、ジェビンの背中から窺うようにオーサーの手元を覗き込んだ。
「ナビちゃんが遊んでくれないなら、帰ろっかなぁ」
そう言って、オーサーは背を向ける振りをする。
“面白いゲーム”の言葉が気になって、思わずジェビンの背から顔を出したナビを見て、オーサーはニヤリと笑った。
「あれ? ナビちゃん、気になるぅ?」
してやったりのオーサーの顔に、ナビは悔しげに眉根を寄せたが、その表情のままで、先ほどから何かを器用に操るオーサーの手元を覗き込んだ。
オーサーが手にしているのは、糸に結ばれたコインだった。まるでハイパーヨーヨーのように、クルクルと自在に空中で円を描きながら、オーサーは飛びきりの笑顔でナビを誘う。
「可愛いナビヤ、これから先生のクイズに答えてくれない?」
オーサーはコインを操る手とは逆の手で頬杖をつきながら、ナビに向かって片目を瞑る。
「正解したら、いいものあげる」
“いいもの”の一言に、一瞬、ナビの目が好奇心にキラリと光るのをオーサーは見逃さなかった。
だが、いくらジェビンにベッタリで子どもっぽいとはいえ、ナビも十六歳にもなるのである。一人前だといういっぱしのプライドもあるし、日頃からオーサーにからかわれてばかりいる分、バカにするなという反発心もある。すぐになびいて堪るかというように、小鼻を膨らませて興味の無い振りをするナビに、オーサーは口元を押さえて笑いを噛み殺した。
「ゴメンゴメン、こんな子ども騙しな方法じゃ、ナビ様には通じないよね。やっぱり、ゲームは無しね」
そう言うと、オーサーはあっさりと糸に吊るしたコインを回す手をとめ、それをポケットに仕舞おうとした。
それを見たナビは、思わず身を乗り出してオーサーの手の行方を追っていた。これには、隣りにいたジェビンの方が、思わずブッと吹き出していた。
「そんなに気になるんなら、遊んでやれよ、ナビ。この哀れなヤブ医者は、お前が相手してくれるだけでいいんだと」
そう言われるとオーサーは、ナビに向かってさわやかな笑顔で言い切った。
「そうだよ、俺、ナビちゃんも知っての通りの変態さんだから」
そこまで言って、オーサーはハタと先ほどのジェビンの言葉を思い出し、横目で軽く彼を睨みつける。
「ちょっとぉ、さっきの発言、ヤブはないでしょ?! モグリだけど、腕は確かよぉ」
そのクネクネとシナを作るような口調が可笑しくて、ナビもとうとうつられて笑いを漏らした。
「ああ、やっと笑ってくれた」
オーサーが目を細める。
「じゃあ、ナビちゃん。始めようか」
オーサーはそう言って、ナビをカウンターから誘い出すと、自分と向かい合うように目の前の椅子を引き寄せて、そこへナビに腰かけるよう促した。
そこで、人差し指に巻きつけていた糸を解き、その先に下がったコインをナビの目の前に持ってくる。
眉間に皺を寄せて寄り目になるナビに、オーサーは笑いながら「リラックス、リラックス」と何度も声をかけて肩を叩く。
その隣りではいつのまにか笑顔を消したジェビンが、真剣な面持ちで二人の様子を見守っている。
「ナビ、コインを見て――何も考えないで。じっとコインの動きだけを目で追ってごらん」
オーサーの声も、いつものふざけた調子ではなく、ナビを導く深いものに変わっていく。
「そう、そのまま。気持ち良く、ゆっくり目を閉じてごらん」
オーサーの言葉に従って、徐々にナビの瞼が重くなってくる。ナビの青白い頬に、長い睫毛がつくる濃い色の影が落ち、やがてナビの瞼は静かに閉じられた。
「僕の声が聞こえる?」
ナビはコクリと頷く。
「今から三つ数える間に、君は時間を遡るよ。君が自由におしゃべりが出来ていた時間に帰るんだ」
一、二、三――
オーサーはそう数えて、静かに指を鳴らした。ナビの肩が、ピクリと震える。
「君は今、どこにいる?」
オーサーの問いかけに、しばらくは何の反応を示さなかったナビだが、やがて徐々にその表情が険しくなると、顔から血の気が引いていき、それに伴い、華奢な肩が小刻みに震えだす。