6-1
罪という名の、絆――
「……サンウ?」
迫りくる夕暮れの赤が貧しい街並みを染める頃、ボロ長屋の一角を改造して作られた開店前の大衆食堂の前に、少年はたった一人でポツンと立ち尽くしていた。
「おっ前、何だよその格好!」
道の向こうから彼を見つけた、学校帰りの彼の親友は、肩から斜めがけしたカバンを投げ出して、少年に駆け寄った。
「気取った格好しちゃってさ! 借り物みたいだぜ、全然似合わねぇ」
肉付きのいい彼の親友は、ポチャポチャした汚れた手で彼のきちんとアイロンがけされたシャツを触り、質のいいニットのベストを遠慮なく引っ張るものだから、途端に彼の着ていた服は汚れて伸びて、酷い有様になる。
それでも、揉みくちゃにされる彼はどことなく嬉しそうだった。
「ずっと、こんなとこで待ってたのか?」
親友が訪ねると、彼はコクリと頷いた。
「バカだなぁ。入って待ってりゃ良かったのに」
そう言うと、彼の親友は勝手知ったる我が家の食堂の扉を開けた。
「母さーんっ! サンウが来たよ!」
「何だってー?」
奥から、威勢のいい女の声が返って来る。
「サンウだよっ! 隣りのサンウッ!」
「おや、サンウ?! 早く上がんなさい」
な?――少年を振り返った彼はそう言ってウインクすると、相変わらずポチャポチャした手で少年の肩に手を回し、食堂の中へと案内した。
「綺麗な格好しちゃってさ、すっかり見違えちゃったよ。元々あんたはうちのドンファと違って、かわいい顔してたけど。すっかりいいとこのお坊ちゃんじゃないのさ」
前掛けで手を拭きながら奥から出てきた女は、小太りな我が子の腹を叩きながら笑った。
「夕飯食べて行くだろう? 今夜はあんたの好きなプデチゲだよ」
女がそう言うと、少年は嬉しそうに頷いて、彼の親友の後に続いて手を洗いに駆け出した。
少年――パク・サンウが、生まれ育ったこの歓楽街を出て行ったのは、つい二ヶ月前のことだった。
ある日突然現れた黒塗りの車に、さらわれるように連れて行かれてそれっきり。
それが今日何の前触れもなく戻ってきたかと思ったら、小奇麗な身なりをして気まずそうにポツンと家の前に立っていた。
「ドンファ、箸を並べて。サンウも手伝って」
変わらず人使いの荒い親友の母の言うことを素直に聞いて、サンウも友の隣りで箸や膳を並べていく。
母が湿らせた布巾を手に巻いて大鍋を食卓に運んでくると、子どもたち二人は歓声を上げた。
「はい、召し上がれ」
この家の主である父は今夜は帰宅が遅くなるため、一足先に三人で食卓を囲む。
サンウは先ほどから親友の母お手製のプデチゲを口に運ぶ度に、「旨いっ! 旨いっ!」と歓声をあげていた。
「向こうの家じゃ、もっと旨いもん食ってるだろ?」
隣りで負けじと鍋を突くドンファが、呆れながらがっつくサンウを見やる。
「叔母さんのチゲに比べたら、あんな料理クソだ」
「こらっサンウッ! 食事中よ」
拳骨が飛んできて、サンウは舌を出して箸を舐める。
「ほらぁ、またこぼして……」
ドンファの母は、まるで我が子にするように、サンウがテーブルや頬に零して張り付かせた米粒を摘んで自分の口に入れた。
「服脱ぎなさい。ドンファ、なんか代わりに着るもの持ってきてやって。あんたは本当、小さい頃からよくこぼす子だったわよね。そんな見るからにお高い服にこぼされたんじゃ堪らないわ」
ブツブツいいながらバンザイをして脱がされた服をクルクルとまとめて、ドンファの母は、代わりに息子に持って来させたダブダブのTシャツをサンウの頭から被せた。
「さぁ、これで大丈夫。いくら零してもいいから、思いっきり食べなさい」
サンウは顔を輝かせ、ドンファと競い合うようにチゲの鍋に向かった。
「今日は遅くなるって家の人には言って来てるの?」
食後の果物を剥いてやりながら、母が尋ねる。
「……うん」
「だったら、お風呂も入っていきなさいよ。ドンファと一緒にね」
「洗いっこしようぜー」
無邪気な友の言葉に、沈んでいたサンウも釣られて微笑む。
追い立てられるように風呂場に行かされた頃には、すっかり気分も戻っていた。
先を争って服を脱ぎながら、いきなり湯船に飛び込む。
ザッバーンッ!!
飛沫を上げた風呂の湯がもろに目に入り、二人は頭を振って水滴を払った。
「ああもうっ! そんな巨体で飛び込んだら、風呂の湯全部無くなっちまうよ」
「何をぉ? 人んチの風呂に、身体も洗わないで飛び込む失礼な野郎に言われたくないよ」
「お前だって、洗ってないだろ。汚ねぇ」
「俺はいいんだよ。だって、俺んチの風呂だもん」
バシャバシャお湯を掛けあいながら、気の置けない仲間同士の悪ふざけにひとしきり興じた後で、ようやく落ち着いて身体を洗い始める。
今度は湯を溢れさせないように静かに湯船に入って、お互いに向き合いながら肩まで浸かった。
「……新しい家はどうだ? 親父さんは、よくしてくれるか?」
何気なくドンファが尋ねると、サンウは急に固まったように動かなくなった。
「サンウ?」
湯船に顔を付けんばかりに俯くサンウの顔を覗き込もうとドンファが顔を傾けた時、サンウが不意に何かをポツリと呟いた。
「……え?」
聞き返すドンファの前で、サンウはもう一度だけ、湯船の中で膝を抱えた姿勢のまま呟いた。
「……帰りたく、ない」
小さな呟きが波紋になって、裸電球に照らされた粗末な湯船の水面を揺らした。
*
「ナビヤー? どこ行った?」
ビール箱を取りに行ったままなかなか戻らないナビの様子を心配して、ジェビンは賑わう店の中から外へと出てきた。
本降りになってきた雨に滲む視界を、かざした腕で庇いながら、店の周囲をナビの姿を求めて探し回る。
「ナビ、返事しろー」
先ほどから呼びかけても、答えるのは雨音のみ。いつもの聞きなれたハスキーボイスが、『ジェビン兄貴』と返答することはなかった。
キャンピングカーの裏手を一周回ったらひとまず店に引き返そうと思い、車に近づいて行った時、ジェビンはバンパーの陰から、投げ出されたジーンズの足を見つけた。
「ナビッ?!」
驚いて駆け寄ったジェビンの眼には、雨と泥に塗れて、身体をくの字に折り曲げたまま、ビクビクと身体を痙攣させているナビの姿が飛び込んできた。
「ナビッ!!」
ジェビンは急いでナビの身体を抱き起こすと、自分の膝に乗せ、血の色を失い青ざめたナビの頬を両手で掴んだ。
「ナビ、しっかりしろっ!!」
大きく息を吸い込んだまま動きを止めたナビの様子を見て、何が起きているのかを悟ったジェビンは、すぐさま前掛けのポケットから丸めたビニール袋を取り出し、ナビの頭に被せた。
「大丈夫だ……もう、大丈夫。ゆっくり、息を吐いて……そう、上手いよ。ゆっくり、落ち着いて……」
過呼吸の発作の対処法なら、今までに何度か経験がある。
だが、ナビに対して行うのは本当に何年ぶりかとことだった。
ここ何年も、こんな発作に縁はなかった筈なのに。
ジェビンはギリッと唇を噛み締めて、未だ苦しげに瞼をきつく閉じているナビの身体を抱きしめた。
安心するように、ゆっくりと背中を撫でてやる。
「オーサーッ!! オーサー、来てくれっ!!」
ジェビンはそのまま、大声で店の中にいるオーサーに向かって叫んだ。
その間も、ナビの背を撫でる手は休めない。
「どうしたの、ジェビ……」
店の中から慌てて飛び出してきたオーサーは、雨の中でずぶ濡れになりながら意識のないナビを抱きしめるジェビンの姿を見て、言葉を飲み込んだ。