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ハルラン~雨を呼ぶ猫の歌~  作者: 春日彩良
第5章【遠い日の歌】
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5-17


「……これにします」


 三つ目にしてようやく決心を固めたミンホが、店員の持ってきたサンプルを指差して頷く。

 金色の支柱に、ドロップ型の小さなダイヤがはめ込まれた小ぶりだが上品なイメージのピアスで、華奢な造りがナビの小さな耳によく映えそうだった。


「ありがとうございます」


 店員はニッコリと微笑んで、会計の準備をしてくると言った。

 ミンホはカードでの決済を依頼し、それに答えて店員が深々と頭を下げる。


「ああ、待ってください。俺も欲しくなってきた」


 下がろうとする店員を呼び止めて、ミンホの隣りにいた男がニヤリと微笑む。


「こんな高価なモンは買えませんがね。今の俺の精一杯」

「どのようなものを、お求めで?」


 店員は戸惑いながらも、プロ意識に徹して愛想よく返答する。

 すると男は、懐から分厚く膨れた封筒を取り出した。


「二百万ウォンで、買えるピアス」


 男はミンホに向けて封筒を誇示するようにかざした。


「臨時収入でして」


 男はミンホを不快にさせた、あの下卑た笑いを浮かべて付け足すように言った。

 そこでミンホは、初めてハッとした。


「……あなた、一体」


 ミンホのその反応に満足したらしい男は、ゆっくりと身体の向きを変えてミンホと対峙した。

 差し出される、枯れ木を連想させる茶色く干からびた手が、有無を言わさずミンホの手を取る。


「申し遅れました。私、ハヌル――いや、あんたたちの呼ぶところのユン・ナビの父親、パク・サンウです」


 食い込む程の強い力に顔をしかめたミンホをそのまま引き寄せて、男はミンホの耳元で囁いた。


「……“息子”が随分、世話になってるようだな」


 濁って生気を失った目はそれでも、ギラギラと暗い炎を宿してミンホを射抜いた。





 急に振り出した雨のせいで、雨宿りを兼ねた客が殺到したため、今夜の『ペニー・レイン』は、最初から客足が伸びていた。


「ジェビニヒョン! 僕、外のビールケース取ってくるよ」


 ガヤガヤする店内に負けないように、ナビはカウンターの中でフライパンをひっくり返すジェビンに声をかけた。


「ナビヤ、ちょっと待て」


 ジェビンは火を止めて、ナビに近付いた。


「お前、無理するなよ。店は大丈夫だから」

「何で? 僕、元気だよ」


 ナビは笑顔を作って、首を傾げてみせる。

 だが、そんな付け焼刃な愛嬌が通用するほど、ジェビンは簡単な相手では無かった。


「……そんな無理して、笑うことないんだぞ。ミンホと、まだ仲直りしてないのか?」


 ああ、やっぱり――

 適わないなぁと、ナビはその笑みを苦いものに変えた。

 人の気持ちに敏感なジェビンのこと、髪を黒く染めなおしたあの日からの自分の変化に、気付かないはずもないのに。


「そんなんじゃないよ。大丈夫、何てことないんだから」


 ナビがそう言うと、ジェビンは黙ってクシャリとナビの黒く柔らかい髪の中に手を滑らせた。


「とっとと謝っちまえよ。首を斜め45度に傾けて『ミンホヤ~、ミアネヨ~』これで、大抵のことは水に流してくれるさ」

「うん、やってみる!」


 ナビはグハハといつもの笑い声を上げて頷いた。


「じゃあ、行ってくるね」


 そう言って、人でごった返す店内を縫うようにして外へ向かう。

 身体を動かしていた方が余計なことを考えずに済む――そう言う気持ちには自分も嫌というほど覚えがあるため、ジェビンはそれ以上何も言わず、ナビを見送った。


 人いきれでむせ返る店内から外へ出ると、ムッとする熱気に変わりはないが、少しだけ息がまともに吸えるような気がしてホッとする。

 ナビは大きく息をついて、小雨の降りしきる中を、テントの横に積んだビールケースを取りに向かう。


 カチャ――カチャ――


 その時、微かだが、何かの金属がアスファルトを引っかく奇妙な音がして、ナビはビールケースに伸ばしていた手を止めた。

 音の出所に耳を済ませると、それは『ペニー・レイン』のテントの裏、キャンピングカーの影から響いてくる。


「誰かいるの?」


 ナビは小雨に濡れるのも気にせずに、音のする方へ向かう。

 本当に時たまだが、酔った客が冷やかしでキャンピングカーに忍び込もうとすることもあるので、こうして注意を払わなければならない。

 キャンピングカーのタイヤとバンパーの間に、わずかに二本の足が見えたので、ナビは思い切って大きな声を出す。


「そこは、関係者以外立ち入り禁止だよ!」


 少し小走りで近付いていって、ヒョイッと車の後ろを覗き込むと、もうそこにあったはずの人影は消えていた。


「……あれ?」


 首を傾げたナビが再びテントの方へ戻ろうと振り返ろうとしたその時、突然大きな掌で口を塞がれた。


「……ッ!!」

「動くな!」 


 聞き覚えのない、低く掠れた男の声が静かに命じる。


「シン・ハヌル……そのまま、黙って聞いてくれ」


 口を塞ぐ男は、もう一方の手で、しっかりとナビの喉元の急所を押さえていた。

 素人ではない――と身体が無意識に警鐘を鳴らし、ナビの額を、冷たい汗が伝う。


「サンウは、あんたの恋人に会いに行った」


 ナビが目を見開く。


「あんたとの、関係も話した」


 ナビは動くなという忠告を無視して、口を塞ぐ男の手に噛みついた。だが、男は微動だにすることなく、あっさりとナビの抵抗を封じた。


「んーっ!! ぅんっ!!」

「聞いてくれ! サンウは、あいつはもう……長くない」


 男の言葉で、ナビの動きがピタリと止まる。

 振り返ろうと首を回したくても、押さえつける男の力が強すぎてそれも適わない。


「……お願いだ。あいつのものに、なってやってくれ。元々あんたは、あいつのものだったろう?」


 それだけ言うと、男の手がスルリと外れた。

 弾かれたように振り返ろうとするナビの後頭部に、ズシリと冷たい金属の感触が当たった。


「ゆっくり10数えて……振り返るな」


 スウッ――と離れる金属の感触。だが、それが離れてもピタリとナビの頭を狙っているのが気配で分かる。

 歯の根が合わず、無意識にカチカチと乾いた音が鳴る。

 震える身体は、銃口で狙われている恐怖からだけではなかった。

 10数えて、男と銃口の気配が完全に消えてからも、ナビは振り向くことは出来なかった。


 再び強くなってきた雨に打たれながら、力なく車のバンパーに背中を預け、ガタガタと震える身体を抱きしめる。


(サンウは、あいつはもう……長くない)


 雨が、容赦なくナビの頬を打つ。


(あいつのものに、なってやってくれ)


 息が、出来ない。


(元々あんたは、あいつのものだったろう?)


 ヒクッ――


 空気を求めて喉を鳴らすナビから呼吸を奪うように、冷たい雨は容赦なくナビを打ち付けた。






第五章【遠い日の歌】完


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