5-16
「近所から……通報が……あったの。調べたら……やっぱり、あの時の、あなただった……あなた、学校にも、行ってないわね」
女は息を切らせながら、有無を言わさずナビが着ていた長袖のTシャツの袖を捲った。
思わず息を呑んだ女を見て、ナビはやりきれない気持ちで乱暴に袖を元に戻す。
ドス黒く変色した痣が重なりすぎて、ナビの腕は本来の肌の色を見出すことの方が困難だった。
「……このままで、本当にいいと思っている?」
身体をくの字に折り曲げて、頑なに女から視線を逸らすナビに向かって、女は哀れむように言った。
「あなたは、選べるのよ。自分の人生を、自分で選べるの。もう、選んでいい年だわ」
選べる?
僕が?
何を?
どうやって?
混乱する頭のままギュッと目を閉じるナビに、女は小さな名刺を渡した。
「……何かあったら、頼って。いつでも、連絡待ってるわ」
女は膝の砂を払うと、破れたストッキングもそのままに立ち上がった。
ナビは女が去った後もしばらくはそのまま動けなかった。
やがてノロノロと身体を起こすと、身体の上に置かれていた小さな紙切れがヒラリと落ちた。
すぐさまそれを拾い上げ捻りつぶそうとしたナビだったが、ふと、そこで動きを止めた。
(あなたは、選べるのよ。自分の人生を、自分で選べるの)
先ほどの女の声が、頭の中でこだまする。
(このままで、本当にいいと思ってる?)
ナビはブンブンと頭を振った。
女の問いかけはナビには難解すぎて、そして残酷すぎた。
ナビは手の中の紙切れを、そのままポケットの中に隠すように捻じ込んだ。
*
「うっひゃぁ……いい値段しますねぇ」
店員が新たに持ってきた別のピアスのサンプルを覗き込んだ男は、そこに小さく下がった値札を見て、大げさな声を上げた。
「いや、分かりますよ。何てったって、宝石の王様ですから。だけど、何だって、ダイヤってのはこんなに高いんでしょうねぇ。だから、あの時も、一つしか買えなかったんですよ」
額に手を当てて大きくかぶりを振る男を、店員もミンホも困惑しきった顔で見ている。
値段は張るものの、先ほど持ってきたサンプルよりはナビにしっくり合う気がして、ミンホは購入を迷っていた。
今ナビが身につけているものと同じ、右耳用を探すのではなく、ミンホは自分なりにナビに似合うと思った揃いのピアスを買ってやろうと気持ちを変えていた。
恋人が送るのだから、本当は、全く新しい物を身につけて欲しい。
「もう少し、見せてもらってもいいですか?」
ミンホが粘ると、店員は再び笑顔で去っていく。
「へぇ、両耳買ってやるんですか?」
「ええ、まあ」
「いいですねぇ。お金があるってのは、幸せですね。貧乏人は、片耳だけ買ってやるにも、血の滲むような苦労をしなきゃならない。身を削って働いて……ようやくもう片方も買ってやれるって時になって……」
そこで男は不意に言葉を切った。
ミンホが不信に思って振り返ったその時、男の視線とかち合い、ミンホは一瞬、心臓が縮み上がるような恐怖を覚えた。
男の目はゾッとするほど冷たい色を宿して燃えていた。
「……逃げられたんですよ。代用品にまでね」
蛇のように温度のない目で見据えられて、ミンホの背筋を冷たい汗が伝っていった。
*
札束を握り締めて、サンウは転がるようにアパートに駆け込んできた。
「ハヌルッ! 見ろよっ!」
100点満点の答案を親に見せびらかす子どもの表情そのままに、カバンの底もひっくり返して、アパートの床におびただしい量の札束をばら撒く。
サンウに背中を向けていたナビは、慌てて手にしていた紙切れをサンウに分からないようにポケットに押し込んだ。
「……どうしたの? これ」
目の前に広がる異様な光景に、ナビは息を呑む。はしゃいで札束のシャワーを巻き上げるサンウは、無邪気な様子でナビにも札束の雨を降らせながら歓声を上げた。
「言ったろ? デカイ仕事当てたって」
その時、窓を叩く雨の音に、サンウとナビは同時に外を振り返った。
「恵みの雨だなぁ。俺らの門出を祝ってるんだよ」
サンウは心底嬉しそうな顔で笑った。
相変わらず、幼さを増幅させるその八重歯が覗いて、ナビは急に胸が詰まって泣きたくなった。
「一眠りして、雨が上がったら、出発だ」
「出発?」
唐突なサンウの言葉に、ナビが思わず問い返す。
「南の島か? お前が好きな椰子の木が生えてるところ……どこでもいいぜ。この金で、お前の好きなとこどこでも、二人で行くんだ」
「……サンウ」
「何だよ? 何泣いてるんだよ。心配しなくても、もう片方のピアスも買ってやるぜ。約束したろ?」
ナビは何も言えず、ただサンウの薄い胸に額を摺り寄せた。
「どした? 何か変だな、お前」
サンウはナビの癖のない髪に手を入れて、クシャクシャと撫でた。
そんな風に触れられるのは、随分久しぶりな気がする。
幼い頃、まだ母と出会ったばかりの、少年の面影を残した若かりし日のサンウの姿を思い出す。
そっと、額に降りてくるキスを受けて、ナビは目を閉じる。
これが、最後になると分かっていた。
雨はまだ降り続けている。
気だるい身体を起こして、隣りで満ち足りた寝息を立てる裸のサンウを見下ろす。
そっと、乾いた肌を小さな手で擦る。
口を開くと、喘ぎ疲れて乾いた喉が張り付く感触がして、小さくむせ返った。
舌で唇を湿らせてから、そっと息を吸い込む。
掠れた小さな声を雨音の間に乗せて、ナビは小さな声でハミングを始めた。
サンウが好きな雨の歌。
母がよく歌っていた歌だった。
雨が降るたびに、幾度となくサンウに強請られたこの歌を、今夜ばかりは強請られる前にナビから歌ってやる。
夢の中にまで、届くように。
もう二度と、届くことはないのだから。
ナビの歌声が、細く長く雨に乗っていく。
哀愁のある旋律のハミングが止んだその時だった。
バンッ――
オンボロのアパート全体を激しく揺るがして、二人の部屋のドアが蹴破られた。
サンウが布団の中で弾かれたように飛び起きる。
「警察だっ! 動くなっ!」
銃を構えた大人たちが、土足で部屋に上がりこんでくる。
いくつもの銃口が、真っ直ぐにサンウを狙っていた。
「っな?! 何だ、いきなりっ!」
サンウは目を血走らせながら、立ち上がる。
動揺したまま、ままならぬ足腰で逃げようとするから、布団に滑ってそのまま床にベシャリと崩れ落ちた。
そこを、何人もの警察官が馬乗りになる。
「ちくしょうっ! 離せっ! 離しやがれっ!!」
サンウは髪を振り乱して、取り押さえる警察官の身体の下でメチャクチャに暴れる。
ナビは警官の一人に身体で庇われながら、震えながらサンウを見つめていた。
母が死んだ時と同じ。
行き交う見知らぬ大人たちの足の下で、床に散らばった哀れな札束たちが踏みにじられていく。
不意に、警官に肩を踏みつけられているサンウと目があった。
ヒクッ――と、ナビの呼吸が止まる。
「……ハヌル」
サンウは信じられないものを見るような目で、ナビを見ていた。
「……お前……まさか……」
次の言葉は、サンウの上に乗った警官に思い切り顔ごと床に押し付けられて声にならなかった。
「ほら、立つんだっ! さっさとしろっ!」
後ろ手に手錠を嵌められ、サンウは無理やり身体を起こされる。
「ハヌル……」
尚も体中で抵抗しながら、サンウはナビを振り返る。
「ハヌルーッッ!!」
恨みか悲しみか、その全てか、悲痛なサンウの声はいつまでもナビの耳に残って離れなかった。
土足で踏みつけられ汚れた札束が、サンウの去って行ったアパートのドアから入り込んできた生温い風に運ばれ、ナビの前でヒラリと舞った。