5-14
それは、たまたまナビの帰宅時間がいつもより少し遅れた日のことだった。
息を切らせて帰ってきて見上げたアパートの二階の部屋には、既に明かりが灯っていた。
ナビは擦り切れたスニーカーの底で、軋むアパートの階段を二段飛びに蹴り上げて、自分たちの部屋のドアを開けた。
「サンウッ! ゴメン、ヒョクチェの奴がサボったから、掃除が長引いちゃって……」
ドアを開けるなり、真っ赤な顔をしてそう叫ぶナビの声にも、こちらに背を向けたサンウは振り返らなかった。
サンウの足元には、空になった酒の一升瓶が転がっている。
「……サンウ?」
「……また、仕事クビになった」
ボソリ――と、酒で焼けた掠れ声で、サンウは呟いた。
「え?」
今年に入ってから、もう四度目だった。
「……何……で?」
「何で……だと?」
サンウは振り返り、足音も荒くナビの元まで歩み寄ると、壁に激しく手をついて、壁と自分の身体の間にナビを閉じ込めた。
粗末なアパート全体が、衝撃でミシミシと音を立てる。
「何で? どうして? 俺が聞きてぇよっ! 気に入らないんだとよ。俺の目が、態度が、気に入らないんだと。裏表なく働いても、いつも俺だけ……ずる賢く立ち回ってる奴等はのうのうと生きてるって言うのによ!」
「……サンウ……飲んでる?」
酒臭い息にナビが顔をしかめると、サンウは逆上したようにナビの髪を掴んだ。
「……痛っ」
「飲んでるよ。悪いか? 俺の稼いだ金だ」
「そんなこと、言ってない」
「そうだよな。ハヌルはそんなこと言わないよな。俺は俺の稼いだ金で何をしようと自由だよな? 例えば、稼いだ金で、赤の他人のお前の面倒を見てやろうと、ユジンの残した借金を肩代わりしてやろうとな」
サンウは痛みに顔をしかめるナビの髪を乱暴に離して壁に打ち付けると、ドカドカと部屋に戻って、封筒に入った紙切れをナビに向かって投げつけた。
「今日、現場にこれを持ったヤクザが来た」
かがみこんでそれを拾ったナビの幼い目にも、それが相当な額の母名義の借用書であることが分かった。
「俺の女は……お前のオンマは……本当に、大した女だよ。最初から、これが目的で、俺をお前らの生活に受け入れたのかもしれないな。全く……大したタマだぜ」
吐き捨てるようにそう呟くサンウに、ナビは思わず口を開いた。
「オンマの……悪口は、言わないで」
その言葉に、サンウは血走った目を見開いた。
「ヒッ!」
震え上がるナビの髪を掴んで、サンウは冷たいアパートの床にナビの小さな身体を引き倒した。
「オンマの悪口は言わないで、だと? お前もユジンとグルだったんじゃねぇか?色欲に目が眩んだ馬鹿な男を引っ掛けて、自分はさっさとガキと借金を残してこの世からトンズラだ。俺を辞めさせるネタを探してた現場監督は大喜びだったぜ。死んだ女の借金抱えてヤクザに追われるマヌケ野郎には、退職金も出す義理はねぇしな」
サンウは荒い息を吐きながら、ナビの細い身体の上に乗り上げた。
「ユジンは、言ったんだ……ずっと、側に居るって」
蛍光灯を背にしたサンウの顔は真っ暗に塗りつぶされていて、ナビが好きだった幼い八重歯も何も見えなかった。
身体の上に乗り上げる、真っ黒なのっぺらぼうが吐き出す酒の臭気だけが、ナビを恐怖と堪らない悲しみで満たした。
「約束、したんだ」
腕を押さえつける顔のないお化けの声が震える。
「……約束は、お前が果たせ」
ミシッ――と鋭く家鳴りがして、ナビの視界は近付いてきたお化けの顔で闇に覆われた。
無理やり口をこじ開けられて注がれる酒の臭いを漂わせた唾液が喉を焼いて、ナビは目に涙を溜めて咳き込んだ。
元々色白な肌を日に焼いたせいで浅黒くくすんだ指が、ナビのシャツの中に滑り込む。
「……お前は、俺の“女”だ。俺だけのために、“女”になれよ」
固く乾いたその感触に、ナビは目を閉じることさえ出来ず、ただ息を詰めて身体の上で蠢く大きな影を見つめる。
これは、罰なのかもしれない。
涙や唾液、体液でベトベトに汚されていく自分の身体を見下ろしながら、ナビは恐怖に震える頭とは別の次元で、漠然とそんなことを考えていた。
子どものような、この男を。
人を殴ることを生業にしていても、尚不器用に善良だった、この男を。
ただ下手くそに、愛情を求めただけの、この男を。
守れない約束で縛りつけ、置き去りにした、母の罪。
その罪を贖うために、残された自分が受ける罰。
身体を真っ二つに引き裂かれるような、経験したことのない壮絶な痛みに気を失う寸前、ナビは無意識に、サンウの筋肉で強張った背中に手を回していた。
それは、ナビが寝た後、控えめに紡がれていたサンウと母の夜の営みの中で、母がサンウにしていた仕草と同じだった。
犯されながらも、労わるように、ナビはサンウに縋り付いていた。
まだ、10歳にもなっていなかった――
サンウの酒の量は、職を変える度に日増しに増えていった。
慣れない現場で溜めたストレスを、仕事帰りの一杯で紛らわす。
年中日に焼けて、帰ってくれば酒臭い息を吐きながら、ナビを乱暴に抱いた。
母の名を叫びながら、泣きながら、ナビを抱いた。
こんな俺は嫌か?
そう泣き叫びながら、ナビを抱いた。
だが、雨の日だけは別だった。
雨が降れば、工事現場は休みになる。
現場に出なければ、サンウが酒を煽る理由もなかった。
朝、窓を静かに叩く雨の音で目を覚ます。
湿気を吸って少し重みを増した、包まっていた薄い布団を跳ね除けると、ナビは隣りで寝ているサンウを振り返る。
「……何だよ、ハヌル……寒ぃ」
モゾモゾ蠢きながら文句を言うサンウに、ナビはそっと囁く。
「……雨だよ、サンウ」
「……ああ」
「良かったね」
これで今日一日は、サンウは心穏やかでいられる。
自分が酷く折檻されるその事実より、サンウがサンウらしくいられることの方が大切だとナビは思っていた。
布団から出ようとしたナビは、不意に腕を引っ張られて、ガクンとバランスを崩し、再び布団の中に引き込まれた。
「どこ行くんだよ?」
面食らって、ナビは答える。
「……学校」
「雨だぞ」
「だから?」
「今日は、休め」
サンウの痩せた腕が絡みついてきて、ナビを更に深く布団の中に沈める。
「学校、クビになっちゃうよ」
「義務教育だろ」
「でも、留年とか……」
「クビならクビで、いいじぇねぇか。俺と、お揃い」
「ヤダよ」
「生意気」
鼻を摘まれたまま思わず吹き出してしまったので、耳に空気が抜けてツーンとなった。サンウは瞼を閉じたまま、半分夢の中にいるようだ。
「……歌えよ、ハヌル」
ナビの鼻を摘んでいた指がスルッと落ちて、サンウが囁く。ナビは目を閉じたままのサンウの顔を見つめながら、そっと囁き返す。
「何がいい?」
「……ユジンが、よく歌ってた歌」
雨の日は、サンウは決まってこうして寝床の中でナビに歌をねだった。
成長するにつれ、ナビの声は母譲りのハスキーでいて伸びのあるものに変化し、特に歌声は、渡り歩いた夜の店でも定評のあった母のものによく似ていた。
サンウは、そんなナビの歌を好んで聴きたがった。
酒を煽っている時のように、行き場のない怒りをぶつけるような乱暴なセックスをすることもなく、ただ子どものように瞼を閉じて丸まって、ナビの歌に耳を傾ける準備をする。
ハルラン ハルラン 雨が降る――
ナビが歌いだすと、目を閉じたまま、いつも決まってサンウは少し笑う。
「……変な歌だよな」
「どうして?」
「雨が、ひらひら(*ハルランは、韓国語の擬態語で「ひらひら」の意)降るのかよ?」
ナビはサンウの髪を撫でながら、教えてやる。
きっと、今彼の髪を撫でているこの指は、彼の夢の中で細く白い母のものにすり替わるのだろう。
「……そうだよ。雨は、ひらひら降るんだよ……優しい雨が、サンウの上に、ひらひら、ひらひら、降るんだよ」
サンウは既に、まどろみの淵にいる。
「……おやすみ、サンウ。良い夢を」
優しい雨の歌を歌っている時だけ、ナビはユジンと三人で暮らしていた時の、気の良い本当のサンウに会えるような気がしていた。