5-13
「その子から、手を離してっ!」
金色のスパンコールを散りばめた舞台衣装のままで、ユジンは青い顔をして飛んできた。サンウの手からもぎ取るようにして、ナビを抱きしめる。
「おいおい、何だよ。人を変態みたいに」
サンウは頬を膨らませる。
「俺はボウズにイカガワシイ真似しようとしてた変態から、ボウズを守ってやったんだぜ」
猫が毛を逆立てて威嚇するように、形の良い小作りな鼻をふくらませてサンウを睨みつけるユジンは、サンウの言葉が真実か否かを測りかねているようだった。
「嘘だと思うなら、ボウズに聞いてくれよ」
サンウは参った、というように肩をすくめて、ナビを指差した。
ユジンはナビを見つめて、そうなの?――と尋ねる。
ナビは懸命に、コクコクと頷いた。
「疑いは、晴れた?」
「……ごめんなさい」
ユジンが素直にそう詫びると、サンウは嬉しそうに破顔した。
「じゃあさ、お詫びと言っちゃなんだけど、今度俺とデートしてよ」
一瞬緩んだユジンの表情が再び険しくなると、サンウはチェッと舌打ちした。
「ああもう、いいけどさ。早くボウズのズボン洗ってやらないと、この気温だし、匂いキツクなって堪んなくなるよ」
サンウが鼻を摘まんで、仰ぐ真似をする。
その時ユジンは初めて、ナビのズボンが小便で濡れていることに気がついたようだった。
「この子の着替えは、私がやるわ」
「今からステージだろ? 俺が代わりにやっといてやるよ。なあ、ボウズ。男同士だし、恥ずかしいことなんて……」
「やめてっ!」
サンウの言葉を遮って、ユジンが叫ぶ。その頑なさは、サンウでさえも、少々首を傾げるものだった。
「ハヌルヤ、オンマと行こう」
ユジンはナビに濡れたズボンを履かせたまま、サンウに背を向けて再び店の中に戻って行った。
サンウの脳裏に、あの頃感じたこの親子の不自然な態度が蘇って来た。ユジンのアパートに転がり込むようになってからも、ユジンは決してサンウがナビと一緒に風呂に入るのを許さなかった。余裕のある時は近所の銭湯に三人で出かけたこともあったが、ナビはいつもユジンと一緒に女風呂だった。六歳にもならない子どもだから――母親の一緒に女風呂なんて珍しくもないと思うが、サンウがどんなに男風呂の方が大きくて気持ちがいいと誘っても、ナビは誘いには乗らなかった。
いや、それ以上に、母であるユジンの方が、より頑なにそれを拒んだ。
サンウでさえも、少し異様な感じを受ける程に。
「おい、ハヌル。ズボン脱げ」
怯えるナビに、サンウは静かな声で命令する。
過保護に溺愛していた、母であるユジンはもういない。
ボウズに何か“秘密”があるとすれば――
「脱ぐんだよっ!」
痺れを切らせたサンウは、有無を言わさずナビの細い足首を掴んで床の上に引き倒すと、ナビのズボンの腰に手をかけ、下着ごと一気に引きぬいた。
「……ッ!」
着ているものをはぎ取られ、サンウの身体の下で無防備に下半身をさらす哀れなナビを見た時に、言葉を失ったのはサンウの方だった。
「……やっぱりな」
予想していたこととはいえ、いざ現実にその光景を目の前にすると、サンウはとてつもなく、やり切れない気持ちになっていた。
「……お前のオンマは、何だってこんなマネを」
乗り上げていたナビの身体から降りて、サンウは憐れみの眼差しをナビに向ける。
「ずっとか? 生まれてからずっと、“男”のフリを?」
ナビは泣きながら、コクリと小さく頷いた。
サンウは手を差し伸べ、ナビの身体を起こすのを手伝ってやる。
「……大人の世界は、危ないからって。酒場は“そういうトコロ”だからって。僕を、危ない目に合わせたくないからって、オンマが……」
「だからって、ガキの間はよくても、いつまでもそのままって訳にはいかねぇだろう」
サンウの方が頭を抱えてしまう。
出生届すら出されていなかったハヌル――
挙句に、酒場を連れ歩くために、ずっと“男”として育てられてきたこの子どもを、サンウは心底、哀れだと思った。
「何で気付かなかったんだろうな。俺も大概マヌケだぜ」
途端に降って湧いた頭の痛い問題を抱えて、ひとりブツブツと悪態をつくサンウに、ナビは言った。
「僕は、このままでいい」
「は?!」
「僕は、男の子だもん。オンマがいつも言ってた。“私の小さな騎士さん”って」
罪なことをする――死ぬほど愛した女だったが、サンウは今、死んだユジンに唾を吐きかけてやりたい気持ちだった。
ユジンがナビに男の恰好をさせていたのは、確かにユジンが言うように、酒場で酔客から可愛い娘を守るための手段だったのだろう。だが、生まれてから本人の意思とは無関係に、ありのままの姿を捻じ曲げさせるのは、暴力だ。
洗脳と言う名の暴力だ。
今更ナビに「女の子に戻れ」と言ったところで、もはや“女の子”は、ナビの本当の姿ではない。否、仮にそれが本当の姿なのだとしても、ずっと“男の子”として育てられてきたナビには、それをすぐに受け入れられる筈もない。
その痛みは、自分にも覚えがある。消し去ったつもりでいても、ふとした瞬間に今もなおチリリと胸を焼く、痛みの記憶だ。
「お前、どうするの? この韓国にいる限り、大人になったら兵役もある……」
言いかけて、サンウはため息を吐いた。
「……ないか。元々、戸籍もないんだしな」
「僕、平気」
「……何が平気だよ。馬鹿言うな」
サンウはナビの額を人差し指で小突く。
「……まあ、いっか」
何だか考えるのも頭が痛くなるだけのような気がして、サンウは思考を停止することにした。
「俺も、お前と似たようなもんだし」
サンウはそう言って、フッと息を漏らして笑った。何が“似たようなもの”なのか、その時のナビは知る由もなかった。
だが、サンウのどこか吹っ切れたような笑顔を見ると、不思議と気持ちは穏やかになった。
根なし草が二人寄り添いながら、望むように生きるのも悪くはない。身体が成長し、いつの日にかそれが破綻する日が来たら、それはその時考えればいい。サンウはそう結論に至っていた。
「俺も、いきなり“娘”の父親なんて荷が重いよ。お前は、俺の“息子”だ。だから、ビシビシしごくぜ。いいな?」
いつものやり方で、またナビの頭をクシャリと掻き回す。
されるがままになりながら、ナビはほほ笑み、頷いた。
幼いナビとサンウの生活は、一見すると上手くいっているように見えた。
若い父子家庭を哀れに思った近所の女たちが、食事を始めとして、何かとナビやサンウの世話を焼いてくれた。
サンウは職を転々と変え、それに伴って住居も変わり貧しい暮らしが続いたが、ナビは行く先々で、一応のところ、学校にも通えていた。
どういう方法かは分からないが、元々が“ヤクザ者”のサンウ――独自のルートでナビと自分の身分を偽装することくらいは、訳のないことだったのかもしれない。
また、ひとつの所に長居することがなかったために、ナビの“秘密”が明らかになることはなかった。プールの授業はいつも休み、身体測定は前の学校で受けてきたばかりだ、など、サンウと口裏を合わせてやり過ごしてきた。
だが、そんな不自然な親子二人の運命の歯車は、徐々に音を立てて軋み始める。
元々が、寄り添うはずのなかった二人の人生に生じた歪みは、少しずつ二人の生活に破綻の影を落とすようになっていた。