5-10
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(お上品な家族見せ付けられて、ムカついたからやったんだ)
(本当はお前も思ってるんだろ?……育ちが、違うって)
喫茶店で別れたあの日から、ナビの言葉が耳から離れない。
全然似合ってなんかいない、露悪的な表情で、ミンホを突き放したナビ。
全てを信じたわけではない。
それどころか、精一杯悪ぶって見せるナビが痛々しくさえ思え、本当のことを全て打ち明けてもらえない、自分の不甲斐なさが悔しかった。
だが、悔しくとも、自分がナビのことを、本当はまだ何も知らないのだということは、紛れもない事実だった。
警察関係者の両親と二人の可愛い妹、特段の富裕層でもないが、逼迫する暮らしとは無縁の生活を送ってきた。金に困って腹をすかせた経験など、ある筈もない。
それでも、ナビが目にしている世界は、ミンホにはキラキラ輝いて見えた。
明慶大学へ潜入した時も、ありがちなカフェテリアに目を輝かせ、睡眠薬と呼ばれる授業を誰よりも熱心に聞き入っていた。ミンホに「目立つ真似はよせ」と窘められても、一人で行方不明になった娘を探してビラを配る女性に手を差し伸べたり、ミンホを巻き込んで学部対抗のバトミントン大会に出場したりした。
初めは不可解でしかなかった。
同じものを見ていても、違い過ぎるその感覚に、呆れることがほとんどだった。
だが次第に、ナビの見ている世界に、惹かれている自分に気がついた。
隣りから覗き込むように、ナビの世界を、ナビ自身を、知りたくて堪らなくなってきた。
つれない態度で置いていかれることに、切なさを覚えるようになった。
図書館で、互いの気持ちを確認した後、だからミンホは、ナビが時には照れ臭さを通り越して引いてしまうくらい、気持ちを出し惜しみせずに伝えてきた。
ミンホに出来ることは、それだけだった。
僕にも、あなたの見ている世界を見せてください。
あなたの側で、世界に対峙することを、許してください。
そんな気持ちを、やっぱりミンホは形にすることしか出来ないと思った。
そんなことを考えながら、威勢よく地下鉄の清潭駅を降りたはいいが、そこから地上へ出た途端に、ミンホは早くも気恥ずかしくて堪らなくなってきた。若い女性や観光客、カップルがその通行客の殆どで、自分のような男一人で歩いている者は無かった。
やはり出掛けにクムジャにリサーチしたのは失敗だったか……ミンホは思わず歩きながら舌打ちする。
やがて狎鴎亭エリアをに入ると、まるで砂糖菓子の並びのような、甘く煌びやかな様相を呈したジュエリーショップがミンホを出迎えた。
クムジャに最近の若者の流行をリサーチした後、自分でもネットを駆使して集めた情報の中から目をつけたその店は、華やかなショップの中でも一際道行く人々の目を引いていた。
小さなオモチャのガラス箱のようなその造りのせいで、外から店内は丸見えだった。その中で、上品な揃いのスーツに身を包んだ店員たちが、寄り添いながら幸せそうにショーケースを見下ろすカップルを相手にしている様子が見える。
ミンホは大きく深呼吸をしてから拳をギュッと握り締めると、大股で店の中に入って行った。
「いらっしゃいませ」
キレイに磨かれ切りそろえられた爪を胸の前で組んで、研修の賜物のような完璧な角度のお辞儀を披露した店員の一人が、ミンホに向かって一歩踏み出しながら微笑みかける。
「本日は、どのようなものをお探しで?」
マニュアル通りの、美しく淀みないセリフがミンホの耳を撫でていく。
「……ピアスを」
決意も新たに店に乗り込んできたと言うのに、きらびやかな店内の様子に飲まれて、ミンホは小さな声で答えるのが精一杯だった。
「ピアスですね? ご希望のデザインはありますか?」
「……雨の、カタチを」
「ドロップ型ですね。かしこまりました」
店員が深々と頭を下げて、店の奥へと消える。
店員の背中を見送ってから大きく息をついて俯いた時、ミンホはガラスのショーケースに映る真っ赤に染まった自分の頬を見てしまい、慌てて目を逸らした。
顔から火を吹きそうだった。
ナビに何か、自分の気持ちをカタチにしたものを送りたい――そう思った時から、ミンホは『ピアス』にしようと決めていた。
いつも、ナビの左耳を飾っているドロップ型のピアス。
何事につけても動きの大きい彼が、笑うたび、はしゃぐたび、怒る度、いつも左耳でキラキラと揺れていた。
光を受けて反射するその眩しい輝きは彼によく似合っていて、ミンホは寂しく飾り気のない右耳も、自分の手で飾ってやりたいと思うようになっていた。
「恋人にですか?」
その時、不意に横から声をかけられて、ミンホは思わず飛び上がった。店員に要求を伝え終わって、完全に油断していたというのもあるが、いつの間にか至近距離に忍び寄っていた男の気配に、全く気づいていなかった。
「……ええ、まあ」
同じく男一人で店に入ってきた者同志の気軽さから、ミンホは軽く頷いて見せた。
だが、ミンホの隣りに立った男の身体からは、心なしか据えたような匂いが漂っていて、夏だというのに何日もシャワーに入っていないのではないかと疑わせるような油の浮いた長い髪が、不潔に首筋にまとわりついていた。
無意識に息を詰めるミンホを気にする様子も無く、男は更にミンホに身体を摺り寄せて馴れ馴れしく話しかける。
「記念日か何かで?」
「……いえ、ちょっと……ケンカをしてしまって」
ミンホが微かに後ずさりしながら答えると、男は大仰に手を打って破顔して見せた。
「そりゃあ、いい! 女の機嫌を直すには、モノで釣るのが一番です」
乾いた唇をヤニだらけの黄色い歯に張り付かせて、男は喉の奥でヒクッヒクッと引きつけを起こしたような下卑た笑いを漏らした。
その発言の下品さと相まって、ミンホは思わず不快感に顔をしかめた。
*
シトシトと降りしきる雨の音が、安アパートの粗末なベニヤの屋根を叩く。
身体の芯まで凍えさせるような冬の雨が運んでくる冷気は、容赦なく壁の隙間から入り込んでくる。
痩せて冷え切った自分の身体を抱きしめてみても、ガタガタと笑う膝はどうすることも出来なかった。
「……寒……い」
思わず小さく呟いたナビの声は、しかし誰にも届くことはなかった。
母が働くスナックで過ごす時と同じ、そこにナビは確かに『居る』のに、誰の目にも映っていない。
母とナビ――おまけにサンウも、一緒に暮らすこのアパートには、先ほどから見たこともない他人が大勢でドヤドヤと押しかけ、ナビたちの部屋を容赦なくひっくり返していた。
ナビは壁にピタリと背中をつけて、先ほどから寒さに凍えながら、そんな大人たちの様子をただ呆然と眺めていた。
「――シン・ハヌル君ね?」
そんなナビの元に、一人の女が固い声で近付いてきた。
引っ詰めに結った黒髪に、縁のない眼鏡、硬質の金属を思わせる事務的で冷たい声が、ナビを更に震え上がらせた。
女はお構い無しに、ナビへツカツカと近付いてくると、骨と皮ばかりに痩せたナビの腕を掴んだ。
ヒッ――
思わず喉を鳴らしたナビにも、腕に食い込む女の手の力は緩むことはなかった。
「私は児童福祉士のキム・ナラよ。一緒に行きましょう」
「ヤッ!」
イジワルな魔女のような顔をしたその女から逃れたい一心で、ナビは身を捩った。
「聞きなさい! 気の毒だけど、お母様は亡くなったの」
女は更にもう一方の腕を押さえると、ナビの目線の高さまで屈みこんで、正面からジッとナビを見据えた。
「それに、あなたは……出生届さえ出されていない。今までどんな生活をしてきたの?」
女の声にわずかに憐みの色が滲んだように感じたが、眼鏡のレンズが乱反射して、その目の奥の表情は読めない。
「一緒に来るのよ。児童相談所が、あなたを保護します」
女の肩越しに、たった二つしかないアパートの部屋の内、母とナビが寝室として使っていた部屋のドアが開いているのが見える。
その隙間から、行き交う人々の間に投げ出された、母の人形のように白く細い二本の足が見えた。
艶かしい太ももまで捲り上げられたドレスは、金色の光沢を放つ、母が一番気に入っていたステージ衣装だった。
「……オンマ……」
駆け寄ろうと壁から背を離した途端に、また強い力で壁に押さえつけられる。
「行くのよ! いい子だから」
女は骨ばった手でナビの目を塞ぎ、その身体を抱え込んだ。
「イヤッ! 離してっ! 離っ……」
「車を用意してっ! 早くっ! ドアを閉めなさいっ! 子どもにこんな場面を見せないで」
女はヒステリックにわめき散らしながら、アパートの部屋にいた他の大人達に指示を飛ばす。
ナビは女に横抱きに抱きかかえられ、引きずられるようにしてアパートの出口へと向かった。
その時だった。
バンッ! とドアを蹴破る音がして、思わず驚いてナビの目を塞いでいた手を女が離した時、突然ひらけたナビの視界に、息を切らせたサンウの姿が飛び込んできた。