5-8
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「やっほぉーい! 待ちに待ったぜ、この日をぉ!」
「それ、毎月言ってませんか?」
冷ややかに見つめるミンホの横で、チョルスは銀行の封筒に入った、下ろしてきたばかりの今月分の給料の札束を数え始めた。
その後ろからヌッと手が伸びてきて、チョルスの一万ウォン札二枚を無言で抜き取った。
「何する……っ!」
そう言ってチョルスが振り返った先には、怖い顔をしたクムジャの姿があった。
「何する? 聞いて呆れるわね。給料日前で食事代もないって泣きついてきたのは、どこのどいつだったかしら?」
チョルスは「しまった」と言うように口を押さえた。
「給料に浮かれる前に、借金返済が先でしょう」
「おっしゃる通りです……姉さん」
チョルスはうな垂れて、肩を落とす。
「だいたいあんたはね、いい年してどれくらい貯金してるの? ソン先輩を崇拝するのはいいけど、給料一晩で飲んじゃうようなとこまで真似してるんじゃないわよ」
「……いくら俺でも、そこまでは……」
「給料一晩で飲んじゃうんですか?」
「ソン先輩の若い頃な、家族できてからはそんな無茶な真似してねぇよ」
「聞いてるの? チョルスッ!」
「はいっ!」
小声で交わしていた会話を聞かれたらしく、チョルスは縮こまって頭を下げた。
「じゃあ、僕はこれで失礼します」
巻き込まれては適わないと、ミンホはそっと席を立つ。
「ちょ……お前、どこ行くんだよ?」
助けてくれと情けない目で縋るチョルスを軽く一瞥すると、ミンホは皮肉気に笑って見せた。
「銀行です。将来のために、貯金しにね」
「ほら見なさい! さすがミンホ君だわ。あんたより随分年下なのに、しっかり将来のことを。それに比べてあんたは……」
ガミガミといつものように始まったクムジャの説教を聴きながら、チョルスは口パクでミンホに「裏切り者」と言った。
ミンホは涼しい顔で「どういたしまして」と返すと、チョルスを残して捜査課を出て行った。
妹の誕生会の夜以来、ナビには会っていなかった。
急に初対面の家族の中に引き入れて、居た堪れない気持ちにさせてしまった。不可抗力とは言え、ナビを傷つけてしまったことを、一言きちんと謝りたかった。
だが、電話やメールでは話をするものの、なかなか二人の時間が合わず、ずっと会えずにいた。
どこの会社も重なる月末の給料日で混み合う銀行で、ミンホはナビと二人のために開設した口座の通帳を開いて機械に投入する。
給料の中から決めた額を、いつもの習慣で口座に積みなおす。
暗証番号を押して画面に表示された残高を見た時、ミンホは指を止めた。
何かの間違いではないだろうかと、もう一度画面を凝視する。
あまりにも長い間見つめすぎていたため、ピーッピーッと音を立てて、通帳が吐き出し口から戻ってきた。
ミンホは通帳が破れてしまうほどの勢いで、ページ捲る。
コツコツの二人で貯めてきた二百万ウォンが全て、一週間前の日付でキレイに引き出されていた。
*
喫茶店に現れた黒髪のナビを見た時、ミンホは驚いたように一瞬目を見開いたが、すぐにこれから話さなければならない事の重大さを思い出し、軽く咳払いをした。
「……どういうことですか?」
ナビが席に着くと、ミンホは努めて冷静に切り出した。
「これが、どういうお金か、二人でよく話し合いましたよね」
ミンホは手にしていた通帳を、そっとナビの前に置いた。ナビはそれを手に取ることはなく、じっとウエイトレスが運んできたコーヒーカップの上に視線を落としていた。
「お店、大変なんですか?」
ナビは黙って首を横に振る。
「だったら、何で?」
ミンホはいつまでも黙ったまま何も言わないナビに、痺れを切らして身を乗り出した。
「何か事情があるんでしょう? あなたは、黙ってこんなことする人じゃないっ!」
知って、どうする?
心の中で、ナビは問いかける。
(お偉いあの両親が知ったら、どう思うかな?)
きっと、耐えられない。
(自慢の息子の恋人は“男”で、しかも生まれ持ってのインバイときてる)
真っ直ぐで、不器用で……でも本当は誰よりも優しいお前には、きっと耐えられない。
バカ正直に繊細なお前は、きっと僕以上に、僕の過去に傷つくのだろう?
分かるから。
お前のことなら、分かるから。
「水くさいじゃないですか」
そんなお前は、見たくない。
「その髪も……父の言葉を気にしたから、ですよね? 僕のこと、信じられませんか?」
今にも泣き出しそうな顔で、ミンホは必死に、突然心を閉ざしたナビに縋りつく。
「言ってくれれば、僕だって少しは……」
その言葉に、ナビの口元がフッと歪んだ。
「何が、可笑しいんですか?」
ミンホが信じられないものを見るような目で、ナビを見つめる。ナビはやがてクスクスと、声に出して笑い始めた。
「お前、僕のこと買いかぶりすぎだよ」
ナビは空になった通帳をテーブルの上でミンホに突き返した。
「事情なんてない。ムシャクシャしてたから、全部使ってやったんだ」
「嘘……でしょ?」
「嘘じゃないよ。お上品な家族見せつけられて、ムカついたから、当てつけでやったんだ」
ミンホが大きな目を見開いたまま、ナビを見つめる。嘘だと、冗談だと、ナビが言ってくれるのを待っているのが、痛いほど伝わって来て、ナビの胸も苦しさに悲鳴を上げる。
だがそれを振り切るように、ナビは声を荒げた。
「髪だって、なんで僕がお前の親父のことを、いちいち気にしなきゃいけないのさ」
意地の悪い笑みを顔に貼り付かせて、ナビは最後まで演技を続ける。
「本当は、お前も思ってるんだろ?」
「……何を?」
「育ちが違うって」
ガタッとテーブルが鳴った。
殴られるかと思った。
殴られた方が良かった。
テーブルの下で拳を握り締めたミンホは、震えながら、ただ哀しげに、搾り出すような声で呟いた。
「……僕は、一度だって、あなたをそんな風に思ったことはなかったです」
ガタッ――
再びテーブルを鳴らして、ミンホが席を立つ。
ミンホはそれ以上何も言わず、黙って喫茶店を出て行った。
ミンホが立った後のテーブルには、すっかり冷めてしまったコーヒーカップが一つ取り残されていた。
黒く濁ったカップの表面に、口元だけに貼りつけたような不自然な笑みを浮かべる自分の顔が映っていた。
そんな自分の顔が可笑しくて、ナビはフッとカップの上に笑いを零した。
カップの表面が揺れて、可笑しな顔はもっと滑稽に歪んで滲む。
「ふふ……アハハ……ッ!」
声に出して零れ落ちた笑いは、いつのまにか息を殺した嗚咽に変わっていた。
ナビは口元に当てた手の甲に歯を立て、一人残されたテーブルに座り、声を殺して泣いた。